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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編④

 間瀬氏が再び会津に戻るのは、明治7年(1874)春らしい。
 間瀬氏の青森での生活ぶりについても確認はできるのだが、「近所のおばさん」につながる情報として知りたいのは、間瀬氏が再び会津に戻ることになる事情かな。その辺の事情を「逆賊からの旅だち 斗南藩の人々」のページから探る。

 そのポイントは、明治4年からの廃藩置県の動きだろうか。
 斗南藩は、7月には斗南県と改められ、9月には5県を合併して弘前県となり、11月には6県が併合して青森県となる。
 具体的に会津藩、松平家の再興が叶わぬ夢と終わるのが、斗南藩の幼き藩主松平容大が東京に呼び寄せられ、主従関係が断ち切られたことかな。松平氏は、これまでの石高の10分の1に相当する禄高が与えられ、東京府華族にまつりあげられる。
 藩主を見送った後の元藩士達は、これ以上不毛の地に留まる理由がなくなるだけでなく、今度は自らの身の振り方も考えなければならなくなったということだ。
 その斗南藩士救済策の最終案として示されたのが、明治6年3月限りで手当米が廃止され、その家業は農工商各自自由とすること。その選択にかかわって示された条件が、以下の事とか。
 ○ 管内で自立を希望する者には米5俵、金5円、一戸につき資本として5円を支給される。開拓場は、三本木1カ所にする。
 ○ 他管下への送籍を望む者には、1人につき米2俵、金2円、資本金として一戸につき10円を支給する。

 これで、間瀬氏は会津へ帰還を決意することを選択なさったのかな。
 同じように明治7年に会津へ帰還された方は、全斗南移住者約1万7000人のうち約1万人だったということらしい。
 なお、計画として示された開拓事業は実際には行われずに、次の年の明治8年には流出者の把握もできないまでになるらしい。
 明治14年時点で、青森県に残留していた会津人は、659世帯約4000人ほどだったとのことだ。生活の目途が立った人びとの多くは、農耕を離れて教員・役場の吏員・商人など各分野で働くことになったという。

 近所のおばさんは、この間瀬氏とかかわりを持った方だったのだろうと思う。その頃、文書をすらすらと読んで解説するおばちゃんってすごいなと思ったが、見せられた文書の方には関心がなかったな。
by shingen1948 | 2013-02-27 06:26 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)