地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編③

 「近所のおばさん考」としてスタートし、たくましく生き続ける事を選択し、平凡に暮らされた方として間瀬氏の生き方を視点に、西軍に若松の城下に攻め込まれた時の情報を確認したところだった。その後についても知りたければ、「戊辰後雑記」を確認すればよいのだが、そこまで追うつもりはなかった。
 ところが、ここまで整理された情報をもとに検索すると、「戊辰後雑記」をもとにした情報が結構で引っかかる。大概が、斗南藩をベースにした情報だが、近所のおばさん考としては、精度がいいと思う。
 斗南藩は、戊辰戦争で敗れて廃された会津藩が、明治2年(1869)に旧南部領に3万石を得て立てた藩で、現在の青森県の下北半島、三戸、五戸の地域にあったる。
 そこに新天地を求めての移住が始まるのが、明治3年(1870)で、約2800戸、家族を合わせて1万7000人におよぶ移動だったとか。
 その斗南藩を紹介する「逆賊からの旅だち 斗南藩の人々」のページに、手記「戊辰後雑記」をもとに斗南に向かう間瀬氏の様子が紹介されているのをみつけた。
 間瀬氏も、清吉(7ヵ月かな?)を中心にして生き残った母マツと娘のみつ、のぶ、つや、長男岩五郎の妻ゆき(清吉の母)が家族を構成し、新天地を求めて移動するのだが、その様子は以下のようだったとか。

 若松を出発する時には、私ども一家(間瀬家)に対し、人夫1人あて、年寄りには駕籠を用意してくださるとのことだった。それで、そのつもりでいたのだが、実際には、猪苗代に着いてみると、年寄りに駕籠を出してくださるということが沙汰やみになっていた。これが、私共一家にとっては一大難儀のことになった。
 老母を南部まで歩かせることもできないので、南部の三戸まで駕籠を(個人的に)雇わねばならずに、この毎日の支払いのために、最初の予定が大変狂ってしまったとか。

 その解説によれば、間瀬家の場合は、まだ金銭的に余裕があった方で、大半の移住者はその余裕もなかったとか。長旅が困難な老人や病人を僅かな荷物と共に大八車に乗せて引いたという。持ち物はせいぜい家系図と位牌、飯炊き釜とわずかな什器類という状況だったとか。
 所持金もほとんどないまま数十人、百数十人単位で黙々と北上したという。
 移住者たちは1日に3回、4回と草鞋を取替え、冷たい雨やみぞれや叩かれ、着替えもままならなかった状況下、かつおぶしをかじって空腹に耐え、悪路をひたすら斗南を目指したという。
 道中での苦難に耐え切れず、途中で脱藩する者も続出し、行き倒れになって路傍に絶命するというケースも少なくなかったとも。
 その姿は難民の群れでしかなかったと表現される。

 その実際の新領地は荒廃地で、実高は7000石ほどに過ぎなかったという。その荒れた地で、慣れない開拓事業は困難と悲惨をきわめたとのことだ。更には、この斗南藩も明治4年(1871)7月には、明治新政府は廃藩置県の断行によって、わずか1年と数ヶ月のみで姿を消す。
by shingen1948 | 2013-02-26 11:36 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)