地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」よそ見編②

 「会津鶴ヶ城の女たち(阿達 義雄)」が目についたのは、今年初めに放映された「白虎隊」で描かれた西郷頼母像のかかわりだ。このドラマ、「白虎隊」という題ではあったが、描かれていたのは西郷頼母像だったように思う。
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 その西郷頼母の家族は、壮絶な自害をするのだが、自らは生き続ける。ドラマでは、この生き続ける頼母は、米沢に送り届ける使命を担っていたという設定で描かれる。これって、生き続ける頼母を肯定するためのいい訳になっていないかと感じたのがきっかけだ。
 「会津戊辰戦史」を確認すれば、死者と死を決意した人々について、たくさんの例が網羅されている。しかし、生き続けるという選択肢を選んだ方が記録されるのは、将来的に権力者と妥協できた方々や、名声を得た方という勝ち組の方々だけだ。ごく普通に、生き続けるという選択肢を選んだ方の記録は、あまり見受けなかった。
 しかし、たくましく生き続ける事を選択肢として選んで、平凡に暮らされた方の生き方の記録も大切なのではないかなと思っていた中で、パラパラめくって出会ったのが、「会津鶴ヶ城の女たち(阿達 義雄)」の間瀬氏。
  しかも、間瀬氏はその位置関係だけみれば西郷氏とご近所だ。
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 概略を整理しておく。
 慶応4年(1868)8月23日早朝、西軍が若松の城下に攻め込んで来た時点で、本二ノ丁にある間瀬新兵衛(350石)宅(地図は昨日整理した)には、妻のまつ、娘のみつ、のぶ、つや、ゆうと長男岩五郎の妻ゆきとその子清吉(六ヶ月)がいた。
 長男岩五郎は、朱雀足軽隊2番中隊頭として戦っているが、29日には、一千の軍団を率いた佐川総督の作戦中に(長命寺の戦いで)死亡する。また、次男の源七郎が、白虎士中二番隊士として出陣していて、この日飯盛山に退いて自刃した事については先に整理した通り。
 以前に整理した関係やその他の情報を組み合わせると以下のような家族構成かな。

 間瀬新兵衛利貞(父)― まつ(母) ←※父は黒河内図書で、その3女
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           間瀬岩五郎(長男)―ゆき
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                      清吉(六ヶ月)
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 間瀬みつ(二女) 若松城篭城中の記録「戊辰後雑記」著者
 間瀬のぶ(三女)
 間瀬つや(四女)
 間瀬源七郎(次男)
 間瀬きよ(五女) 赤羽家に嫁ぐ(夫赤羽恒之助)。若松城篭城中に女児(はつ)を生む。
 間瀬ゆう(六女) 、開城後、過労のために病に倒れ、同年10月に病没した。

 五女きよは、隣の赤羽家に嫁いでいたのだが、臨月の身で実家に戻って来ていたらしい。母のまつが、早鐘で入城の際はきよをどうしたらよいかと赤羽家に相談したら、実家の方々と一緒に立ち退いてもらいたいという事だったとか。
 敵の城下侵入を予感していた間瀬家では、夜明け前に早々と朝食を済ませていたという。城内から戻ってきた槍持ちの覚内に戦況を聞いてみると、戸ノ口原では味方の方が優勢で、敵を追い捲くっているということだった。
 ところが、突然早鐘が打ち鳴らされ、それからは大騒ぎとなった。すぐに支度をし、重要品を入れておいた垂駕の所へ行ってみると、供をさせるつもりで申し付けておいた若党の小吉、善吉、それに下女までが逐電してしまっていた。
 しかたなく、一同はかねてから指示されていた若松城三之丸に入り、みつ、のぶ、つやの三姉妹は、多少の危険を覚悟しつつ自邸と三之丸を往復し荷物の搬入に奔走した。
 22日終夜には、猪苗代方面所々に火の手が見え、砲声の音が絶え間なく聞えたという。23日の朝飯も夜明け前に済ませていたという。手すきの者は手負い看病に出申し候えという奥からの御指図があった。みつは、炊事方だったのかな「結び握りに出候様に付き、黒米御結びにて固まらず、手拭に絞り固め候事」。
 臨月のきよは、入城の翌日産気づいて、小書院より奥女中の瀬山部屋に移される。ここで、中森重次郎の妻が助産婦役をつとめ、27日の朝に無事女子を出産する。
 この日、夫の赤羽恒之助は城内にいて、やかんに酒を入れて、小魚のたつくりをつけて持参し、誕生した赤児に「はつ」と命名してささやかな祝いをしたという。
 瀬山部屋は八畳敷で、三尺に二間の押入れがあったという。
 ここに間瀬家の七人と赤羽家のきよと赤児のはつがいたのだが、他に、川村丈五郎、石澤群六、吉村吉太郎という三人の負傷者が一緒で、合計12人の合部屋だったということで、混雑を極めたという。
 その後、長男嫁のゆきが、浅手ではあったが砲弾の破片で傷を負い、赤児の清吉を抱えているので再度怪我をしないようにという奥の配慮で、藩主の御座所であった御休息の間に移された。しかし、夫の岩五郎は29日の長命寺の戦いにおいて戦死し、舅新兵衛も9月14日城内において戦死するという悲惨さを味わう。

 開城後、間瀬家の者には南御山村の元肝煎小林藤吾宅が割当てられ、さらに井手村の石山忠右衛門宅に移る。みつ、のぶ、つやの三人の姉が、自刃した白虎隊士間瀬源七郎の遺体を飯盛山まで探しに行くのはこの頃かな。
 翌9月の会津藩降伏後は、間瀬家族は、清吉(7ヵ月かな?)を中心にして会津藩の移封先奥州斗南に移るが、1874(明治7)年に会津(会津若松市材木町)に戻ってきて、みつは日記をもとに「戊辰後雑記」を記す。
by shingen1948 | 2013-02-25 06:19 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)