続・福島を通り過ぎた風~フクシマはすでに過去の出来事<平成24年2月の頃>④
2013年 02月 18日
この映画は、震災の描写を娯楽性に重点を置いて描くパニック映画ではないが、映画の中で描かれる唐山大地震と四川大地震の地震を再現したシーンや被災者の救出シーンなど一部の描写がこの時節柄上映するには相応しくないと判断したとのことだった。
ところが、最近は、映画を中心に大震災を題材とした作品が完成したということにかかわる多くの情報を見聞きするようになった。先日は、街に出てみたら「遺体~明日への十日間~」上映のポスターをみかけた。
自分の感覚的では、まだ受け入れられる状況ではないと思うのだが、情報を確認すると、昨年12月には舞台となった岩手県釜石市でも上映され、受け入れられたとのことだ。
さすが東京の感覚は進んでいると関心はするが、受け入れられない自分もまともなのではないかとも思う。
逆に、県内の大震災の題材としては、東京電力の原発事故で故郷を追われた人々ということが多いわけで、現在も進行形なのだが、こちらの客体視は進めるべきなのだろうという感覚かな。
それで、幻の若松監督の「気張って作る歴史物」である「東電をもじくる」作品を想像すれば、「芝居でつないで、(描き出されるのは)皆が疎開して取り残されて死んだおじいさんおばあさんが5人位、密室で餓死して死んでいるのを、……。」ということになるのだろうか。それと関わりそうな情報。
「東日本大震災:福島第1原発事故 南相馬の80歳「死を覚悟した」 救助、震災4日後【毎日新聞(2013/2/13)】」
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130213ddm012040056000c.html
東京電力福島第1原発事故の直後、緑内障で全盲に近い小山田トヨさん(80)は福島県南相馬市小高区の自宅に5日間取り残された。同市は要援護者のうち同意した人だけを載せた名簿を作成し消防団などに渡していたが、大震災前は支援の全体計画はなく、誰が誰を助けるかといった具体的手順も決まっていなかった。
11年3月11日の夜、小山田さんは自宅1階の茶の間のこたつで布団をかぶり、寒さと余震に震えた。周囲の人たちのほとんどが車で避難し、助けに来ようとした知人の車は警察官に制止されていたことを後で知った。
翌日午後、市役所の車が原発事故を知らせ、避難を呼びかけているのが聞こえた。「助けて」。家で大声を上げたが反応はない。玄関から外に出た途端、ぬかるみに足をとられた。引き返し、断水前にくんだポットの水を少しずつ飲み、2枚残った食パンをかじった。
電話は通じず車一台通らない。物音がせず街灯もつかない。衰弱し、喉の渇きに襲われたが、ポットの水は残りわずか。「死を覚悟した」という15日夕、電話が突然、「ピーッ」と鳴った。親族からの連絡だった。受話器を置いた後、自ら110番した。
大柄の警察官に抱えられるようにして外に出たのは約2時間後。底に数ミリの水が残ったポットを避難先の社会福祉協議会事務所に持ち込み、「生き延びることができた」と胸をなで下ろした。