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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第6話「会津の決意」

 今話は、政事総裁職の松平春嶽が松平容保を京都守護職に説得し、最終的にはこれを引き受ける事になる。京都守護職を引き受ける事は、誰が見てもドラマの頼母が言う通り、薪を背負って火に飛び込んでいくようなもの。
 八重の立場からは、知り得ない事情ということなのかもしれないが、この決意により八重たちの運命も大きく変わることになる。
 ドラマでは八重の幼馴染みだとする山川浩(ドラマでは、大蔵(与七郎))が著す【京都守護職始末(山川浩)< 郷土研究社昭和5年>】で、そうせざるを得なかった事情を確認すれば、会津藩の立場で以下の項立てで説明される。
 「京都守護職の起因」・「諸浪士の跋扈」・「生麦の変」・「西鄕田中兩國老諫止」・「守護職の奉命」・「公武一和に就きて幕府に建議す」

 幕府の最高人事に介入し、松平春嶽を大老職に相当する政事総裁職に起用し、一橋慶喜を将軍後見職にすることを幕府に認めさせたのは、薩摩藩の島津久光らしい。先に整理した有力諸侯を国政に参画させて国難を乗り切るべきとの雰囲気の中、一千名の藩兵を率いて上京して朝廷から勅使を出させ、その権威を後ろ盾としての介入だ。
 ドラマでは、その松平春嶽が、養子の藩主である容保にとっての殺し文句「藩祖の保科正之が存命ならば必ず引き受けただろう」との巧みな表現で説得していたいうこと。

 幕府側から見れば、本来、京都守護の任務を負っていたのは彦根藩らしい。だが、彦根藩は井伊大老の安政の大獄等から不適当と判断されたらしい。残る候補が、家門で将軍家に非常に近い藩で、かつ大藩と言う条件で、これにかなうのが越前藩と会津藩だったということのようだ。そして、その中の越前藩は、藩主の松平春嶽が政治総裁職についているという状況。残る候補が会津藩ただ一つだったということであったようだ。

 朝廷側が期待したのは、口出しっぺの島津久光のようだが、島津久光がもくろんだのは公武合体で、その象徴が皇女和宮の降嫁。だが、江戸から京都に戻った時点で、京都で高まったのは尊王攘夷運動。この公武合体を推進した公家やその家臣たちは、幕府よりとみなされて、尊王攘夷運動の攻撃の的になっていた。この動きが、朝廷内の公家たちにも影響して開国論の薩摩藩が朝廷での支持基盤を失ったという事情。そして、うまくいかないと情勢判断するやさっさと手を引くという久光の軽い身のこなしもあったようだ。
 それよりも、幕府側の立場としては、外様の薩摩藩などに要職を任せられないという事情だったらしい。

 京の町では、攘夷論を唱える過激な志士たちによる「天誅」と称した殺傷事件が頻発する。こんな尊攘派のテロ横行する京都は、すでに無法地帯の様相を呈している。京都守護職は、その状況打破のための軍事職であり、会津藩からみれば、遠方から大量の軍事力を注がなければならない使命だ。
 会津藩にとっては、これは白羽の矢などではなく毒矢でしかなかったはず。ドラマでは、頼母が「薪を背負って火に飛び込んでいくようなもの」と表現するが、これは「京都守護職始末」の「西鄕田中兩國老諫止」の表現の通りだ。
 なお、「西郷頼母の生涯(牧野登)」によると、頼母は、この後も京都守護職辞任を説いて「御免御叱」で家老の座を去ることになり、若松の郊外で「栖雲亭」に4年間籠ったとされるらしい。

 エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第6話「会津の決意」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_6.html
 「会津の決意」
 八重(綾瀬はるか)の幼なじみ山川大蔵(玉山鉄二)の姉・二葉(市川実日子)が、会津藩の有望な家臣・梶原平馬(池内博之)のもとへ嫁ぐ事が決まった。一方、江戸では勅命を携えた薩摩が幕府に将軍の上洛を迫る。これを受け幕府は、京都の治安維持にあたる京都守護職の選任へにわかに着手。政事総裁職の松平春嶽(村上弘明)は、かねてから卓見で目をひいていた会津藩主・容保(綾野剛)に白羽の矢を立てる

by shingen1948 | 2013-02-14 05:23 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)