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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫の里の狐達⑧~石ケ森と信夫山②

 「石ケ森稲荷」は「加茂左エ門稲荷之記」では、昔、京都伏見の霊感を受けて神通力を身につけた加茂左衛門という男が、封じ込められたという。
 「ふくしま散歩」では、現実に起きたこととこの加茂左エ門稲荷大明神とを関係付けて解説し、霊験あらたかであるとする。現実の世界との境界線がなくなるような雰囲気を伝えたかったのだろうと思う。
 歴史地図の全体は、詳細な歴史的な事実を客観的にプロットされていると思うのだが、ここでは?マークをつけながら、「熊野道?」のメモ書き、本内の舘には「アイヌ遺蹟のチャシか?」のメモ書きも見える。
 先に整理した?が、信夫山の熊野峠に続く「熊野道?」。再掲すれば、
 熊野峠
 古代峯越の古道と伝え、鎌田半在家の熊野、石ケ森への直線コースにあたる。これは(丸子の)条理制遺構につながる。
 a0087378_964918.jpg この鎌田半在家の熊野が、鎌田三熊野の一つであるとのメモもあるのだが、現在の地図上では、熊野そのものが確認できない。確認できる半在家の地名と熊野前をもとに見当をつけてみれば、現在の道筋に背を向けて建っていた。
 ここが元々の場所なのか、開発によって移動させられたのかは分からない。確認したい事も?マークのつく事柄なので、それはどうでもいい事。a0087378_982147.jpg
 八反田川の土手で、その熊野社の前の道筋と石ケ森稲荷を結ぶ直線を意識して、その延長線上に信夫山の熊野峠を意識して眺めればこんな感じだ。
a0087378_916691.jpg 信夫山の熊野峠、鎌田三熊野の一つ鎌田半在家の熊野社を直線状に意識して石ケ森稲荷を眺めれば、こんな感じかな。

 もう一つの?である「チャシ」を確認すれば、辞書的には、主に近世にアイヌが築造したある種の施設の名称だとか。経緯的に、金田一京助がチャシをアイヌ語の「チ アシ(我々 立てる)」から来ているのではないかと主張し、中世の東北地方に数多く見られた館と語源を同じくするのではないかと考えたことがあったとか。しかし、この説はアイヌ族を古代の蝦夷の末裔と見る説の破綻とともに廃されたという。
 半沢氏の感覚では、この鎌田舘が、蝦夷の城のような雰囲気があると見えないかなぁという感覚的な表現だったのかなと想像する。
 なお、チャシコツはその跡ということで「砦址」を表わす言葉になるとか。

昨日の記事に、以下の事を付け加えた。
 先に、吉田松陰の会津城内の行動を整理した時に、会津観光案内では、松陰等宿泊先は清水屋だとする根拠は分からないとした。
 【東北遊日記2巻(吉田松陰他)】で帰路を確認すると、3月28日会津に立ち寄り、同じような方々と再会するのだが、その旅立ちに「発7日町」とある。そこから、湯川橋をわたり、本郷を経由して大内宿に入る。4月朔日には、宇都宮藩高原経由鬼怒川ということだ。これは、会津の方には馴染みの日光街道だ。この道筋で江戸に戻るようだ。
 それなら、例え想像だとしても、少なくとも松陰等の帰路宿泊先が清水屋推定は自然かな。
Commented by MASA at 2013-02-11 15:00 x
参考情報です。
「信夫郡丸子村」香内佐一郎著(昭和47年8月31日再版非売品:県立図書館蔵)に、丸子略図と福島の道(p114~p117)に熊野峠路、また、石ヶ森(p100~p101)、古峯ヶ原さま(p102~p104)について記されています。
Commented by shingen1948 at 2013-02-17 10:10
情報ありがとうございます。
石ヶ森付近は、どう言い表わせばいいのかは分からないのだけれども、何かは感じるという「漠然とした感じ」を大事にしたいという感じの場所ですね。その感じを、「信夫の里の狐」に託せば
いいのかなということでこの付近の散歩を整理しはじめていますが、なかなか難しい感じですね。
図書館が再開したら確認してみます。
by shingen1948 | 2013-02-09 09:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)