大河ドラマ視聴「八重の桜」~第5話「松陰の遺言」②
2013年 02月 07日
第4話「妖霊星」では、政局的に急変する安政5年(1858)を時代背景に、覚馬の進言が認められ復職が許される。そればかりか、軍事取調役と大砲頭取に抜てきされることになり、尚之助(長谷川博己)の教授方就任も叶うということになる。
ドラマでは、覚馬が身分をわきまえずに意見具申した無鉄砲さのように描かれたが、考えてみれば、覚馬が江戸見分を要請されるのは藩命である。それを元に意見具申する事自体は、藩の方針だと見るべきなのだろうと思う。その藩の方針も、独自の判断というよりは、幕府の方針に則っていたと見るべきなのだろうと思う。
天保14年(1843)に福山藩主・阿部伊勢守正弘(25)が老中に任命さるが、老中入れ替えの時期でもあったことから、直ぐに老中首座に昇り詰める。この阿部正弘が引いたレールが、日本を列強の植民地から逃れる結果となるというのが通説らしい。
1844~1852年には、仏・蘭・英・露の船が来航し開国を迫られるが、これは植民地支配の第一歩であるとの判断で、全ての要求を拒否する。1853年には、米のペリー艦隊が大統領の書簡を持って浦賀に来航するが、体面を保ちつつ国書を受理する。そして、そのペリー艦隊の一年後再来までが、日本の針路を決める貴重な1年となるという状況。
ここで、阿部はただちにこの国書の日本語訳を作成し、この国書に関する意見を諸国大名に尋ねたとのことだ。この時に得た意見をもとに、次々と対策を打っていったという経緯になるらしい。
注目は、この開かれた処置。
これは、江戸幕府250年の歴史において初めての処置だとか。会津藩が覚馬を江戸留学させたのも、そして、覚馬が藩に意見具申するのも、最終的には、藩がその意見を認め、軍事取調役と大砲頭取に抜てきするのも、この開かれた処置による影響だと見るべきなのだろうと思う。
そして、ドラマでは覚馬を攘夷派の不逞浪士に急襲されるのが実話かどうかは知らないのだが、誰もが天下国家を考える風潮の負の側面としてあってもおかしくはない事だったとは思う。