大河ドラマ視聴「八重の桜」~第5話「松陰の遺言」
2013年 02月 06日
第1話で設定される長州藩士吉田寅太郎と肥後藩士宮部鼎蔵が会津を訪ねてきて山本邸で一晩過ごす場面が実話かどうかは分からない。
ただ、覚馬が吉田松陰の噂は聞いたことがあっても、直接の接点が合う機会があっても不思議ではないようにも思える。
松陰は、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけて、松陰が満22歳のとき、肥後藩士宮部鼎蔵らと東北諸藩を歴訪している。慶応4年に河内屋吉衛門が出版した【東北遊日記2巻(吉田松陰他)】と、会津での松陰の行動の情報と照らし合わせてみる。
内容確認のため部分読みだが、原点に接する楽しさはある。知識が浅いので読み取り違いがあるかもしれない。
松陰等は、水戸で1か月間滞在して、1月20日に水戸を発っている。会津入りは1月29日だ。
着いた29日には、井深蔵人を訪ねるが、既に没してその次子、某孫茂松に逢う。志賀與三兵衛、黒河内傳五郎を訪ねるが不在。傳五郎の子百太郎に合う。
2月朔日とあるのは、その翌日でいいのかな。この日に、志賀、黒河内、井深が来訪する。
2日には、高津平蔵を訪ねている。この人は、古賀精里の門弟らしい。井深、廣川元三郎が来る。医生馬島<?>瑞國<?>を訪ねる。庄田長之助又合う。
3日には、廣川勝助を伴って志賀が来訪する。
4日には井深深を訪ね、院内村、湯本(東山)へ。
5日には、原貢、廣川、高津、師が、黒河内を訪ねている。ここで別れを告げて帰ると、その夜に黒河内と井深が来て、また語り合う。
6日朝には、黒河内の使いが来て、2人日新館を見学する。その日若松を発つ。
ここから、会津坂下町塔寺経由津川になる。
ここに登場する黒河内傳五郎は、第3話で山本覚馬の槍術との決闘に立ち会う黒河内伝五郎だ。この方がどなたか確かめる中に、「嘉永5年(1852)、吉田松陰が会津を訪れた際には日新館を案内している。」という紹介情報があり、これと一致する。廣川とあるのが、軍事奉行広川勝助ということらしい。高津淄川は、日新館教授らしい。
これらの人材とのかかわりということで、海防について意見を聞いたり、兵制や軍事教練の話もしたりする事になったらしい事に納得する。
手持ち地図で確認できるのは、立ち寄った藩士井深蔵人宅は西栄町あたりかな。黒河内傳五郎宅が若商あたりかな。
ドラマにある山本邸で一晩過ごす場面が事実かどうかは知らないが、日新館出入りも含めて覚馬と直接の接点があっても不思議ではないとも思える。更には、山本邸は日新館近くあるわけで、更に近くに立ち寄り先もあり、八重も顔を合わせてもおかしくはないかも。
なお、会津観光案内では、松陰等宿泊先は清水屋だとしているらしいが、その根拠は分からない。どうでもいい事だが、ここに登場する井深は、ソニーの井深氏ともかかわるのかな。
エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第5話「松陰の遺言」の粗筋をお借りする。
http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_5.html
「松陰の遺言」
うら(長谷川京子)が覚馬(西島秀俊)の子を身ごもり、八重(綾瀬はるか)は佐久(風吹ジュン)たちとともに祝福する。しかし、その喜びも束の間、覚馬を攘夷派の不逞浪士が急襲する。さらに、江戸ではかつて八重たちとも交流があった吉田寅次郎(松陰/小栗旬)が安政の大獄で処刑され、知らせを受けた覚馬や八重たちは悲しみに暮れる。そして、攘夷派の怒りをかった井伊直弼(榎木孝明)がついに桜田門で暗殺される。
SONY創始者の井深大氏の祖父は朱雀隊。
その実弟は石山家に養子に行き、白虎隊士となって飯盛山にて自刃しております。