地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第3話「蹴散らして前へ」

 ドラマは、江戸帰りの新風を会津に吹き込もうとする覚馬に対して、頭が古くて堅い保守的な上役や周りの人たちという構図で描く。
 「蹴散らして前へ」は、その頑固な壁を崩すのは容易でないという事のようだが、突き進む覚馬も同じ頑固者である。柔らかく遠まわしに事を進めていく術がない。
 道理を重んじる頑固者の中で、新しい道理は通りにくい側面と、頑固と頑固のぶつかり合いでは、身分の低い方が不利という側面がある。今話は、その両方の側面かな。

 ドラマの構成としてはこちらを強調されるが、保守的な上役の立場に立てば、財政面が逼迫していて新しい道理が受け入れ難い状況だったということではなかったかなとも思う。
 ドラマでは、会津藩が守備を担当する品川砲台がちらりと紹介されるが、確認してみるとそれ以前から警備を任されているようだ。
 頑固さをテーマとすれば、道理を重んじる頑固者は、権力者にとっては都合よく扱いやすい存在だったということもありそうかな。

 ペリーが浦賀に来航するのが、嘉永6年(1853)で、この時に、会津藩は幕命によって久里浜に船を出して警戒させられ、品川砲台を警備させられるらしい。容保が品川砲台でその被害に涙を流すドラマの地震を確認すると、これが安政2年(1855)の安政の大地震らしい。和田倉門藩邸ほか被害甚大で死者165名とか。
 会津藩は、これよりはるか以前の文化7年(1810)から江戸湾西側(現神奈川県三浦半島)の海岸警備を命ぜられるようだ。この警備が文政3年(1820)まで続く。
 弘化4年(1847)には江戸湾東側(現千葉県富津市)の警備が命ぜられる。当初、海岸警備を回避しようとしたが許可されなかったらしい。
 嘉永3年には、海岸線に七曲砲台を築き、上総富津に陣屋を設けて警備に当たったとか、この駐留時の規模は警備兵1397人・大小銃474門・新造船19隻という大掛かりなものだったとかの情報も。
 その上で、品川台場の警備があって、結局安政6年(1859)まで会津藩は海岸警備の命を全うすることとなるという状況だったらしい。
 ドラマで、覚馬は「井の中の蛙」と表現するが、そういうことでもなさそうだ。

 エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第3話「蹴散らして前へ」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_3.html
 「蹴散らして前へ」
 桜の木の上で砲術本を無心に読む八重(綾瀬はるか)。毛虫に驚いた拍子に本を落としてしまう。そこへ若き武士が通りがかり、その本を拾い上げる。江戸から覚馬(西島秀俊)を援助しようとやって来た尚之助(長谷川博己)だった。よき協力者を得て蘭学所の整備を急ぐ覚馬。しかし、藩の守旧派の反感を買い禁足を命じられてしまう。八重は尚之助に習って作った鉄の玉を覚馬のもとへ持って行き砲術の指南をせがむ。ひたむきな妹の姿を見て、覚馬の脳裏に象山(奥田瑛二)が蟄居先からよこした手紙の一節が甦る。「何かを始めれば必ず邪魔する者が現れる。蹴散らして前へ進むのだ」。覚馬は八重と尚之助とともに、新式銃の設計に乗り出すのだった。
 関東の視聴率は、18.1%だったらしい。
by shingen1948 | 2013-01-22 06:05 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)