気を感じて伏し拝む⑨~木旗山④
2013年 01月 15日
もう一つは、散策を楽しむのに必要な事が、専門とする方々にとっては常識的な事で説明いただけないという事もありそう。そんなものを幾つか拾ってみる。
まずは、安積弘隆寺が建立されたとするここ木旗山は、現在は安達郡の感覚とのかかわり。これは、 「延喜6年(906)安積郡から入野・佐戸の2郷を割き、新たに安達郷を立てて3郷からなる安達郡を分立した」とのことで矛盾しない。
確認したことと並べると、 「天慶5年(881)天台別院(地方本山)として安積弘隆寺が建立される」と、「1100年代にはすでに秀れた経塚をつくる寺が存在していた」との間の出来事という事らしい。
なお、安積郡分立にかかわる「郡山台郡衙跡」の散策は、以下のように整理している。この時点では、散歩を楽しむための基礎となる事を確認する意識が強い。
○ 郡山台郡衙跡に立ち寄る
http://kazenoshin.exblog.jp/6543939/
○ 安達郡衙分置基礎データを確かめる
http://kazenoshin.exblog.jp/6783731/
○ 安達郡衙分置基礎データを確かめる②
http://kazenoshin.exblog.jp/6787693/
散歩を楽しむための基礎となる事を確認するということでは、「安達太良山麓古墳群の見方を学ぶ①」もかかわりそうかな。
○ 安達太良山麓古墳群の見方を学ぶ①
http://kazenoshin.exblog.jp/6630317/
次が、地域を散策する感覚からは、【教育福島】の「藤原時代12世紀の秀れた経塚であることは明らかである」の表現が気になる。
この地の散策で「藤原時代」をイメージするのは、基本的な勢力分布が関東地方より西は源氏だが、東北地方は奥州藤原氏の時代だ。
西の国で貴族の藤原氏が大きな勢力を持つのは、武家の台頭となる「保元の乱」→「平治の乱」等により、桓武平氏の平清盛が政権を取るあたりかな。ただ、藤原道長から出た藤原家の分家は、常に朝廷の中枢にいて摂政や関白として影響力を持ち続けたとか。
どちらも12世紀ということではあるが、時代特定の権威付けとして、前段「奈良国立博物館保管の銅製経筒及び今回の出土品」とのかかわりとみれば、後者概念の藤原時代なのだろうかとは思うが、よくは分からない。
更には、経塚について次のような常識があるようで、木旗山経塚群の散策とのかかわりでは、その年代的な事かな。
日本での経塚造営は、寛弘4年(1007年)、藤原道長が大和国金峰山山頂に造営した金峰山経塚が最古で、貴族層が末法の危機感から、経典を後代に伝えようとした。
この経塚は、12世紀を盛期に一時衰退する。
中世になると庶民の間で納経活動が広まり、現世利益や追善供養の意味が加わる。
木旗山経塚群の意味合いは、前者であるということかな。