地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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気を感じて伏し拝む④

 昨日は、西根神社が北の山々を背負っていることを意識したことを整理した。
 それは、信夫郡菩提寺が創建される以前の宗教的な匂いのようなもので、史実がどうのという話ではない。
 具体的には、「陸奥三山の一つで、末院は千有余あったといわれた「高寺堂菩提寺」の話から、高寺伝承とのかかわりを思わせた風景であり、それが史実とし存在したかどうかということではない。古くから日本人の基層となる信仰というものであってもいい。菩提寺が創建される前にもあった「宗教的な匂い」を感じる山々と言い換えてもいい。
 西根神社が北の山々を背負っていることを意識したというのは、そういう感覚だったのではないかというのは、整理していく中で明確になってきたこと。
 昨日も散歩がてら湯野方面に向かったのだが、その意識した西根神社が背負った北の山々を撮ってみた。これを昨日の記事に張り付けた。

 先に「湯野不動寺に立ち寄る」として、寺前にある不動寺案内板から読み取れる事を整理しておいた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7681422/
a0087378_1381834.jpg
 しかし、今回の「青巖と高寺伝承」の読み取りとはずれがあるので、それを確認整理し直しておく。
 大同1年(806) 奥州会津石梯山に清水寺(慧日寺)が建立される。「私聚百因縁集巻7」
 徳一は陸奥国にいたとされるのは、最澄と論争をしていた最澄の著作等からは、弘仁8年(817)頃から同12年(821)頃、空海の書簡からは、弘仁6年(815)頃が確認できるらしい。その中でも、長岡京遷都の延暦3年(783)以前に、「弱冠にして都(=平城京)を去」り、「私聚百因縁集巻7」の「大同1年(806)に奥州会津石梯山に清水寺(慧日寺)を建立」が通説らしい。
 大同2年(807)頃から天長1年(824)の間頃に、山階寺(奈良興福寺)僧智興が信夫郡菩提寺を創建する。これが、西原廃寺と思われる。
 天長1年(824)から天長7年(830)頃、信夫菩提寺は定額寺に列した興福寺別院の古刹であると認定される。
 鈴木氏の説では830年、「青巖と高寺伝説」の説では、徳一の晩年(「南都高僧伝」によると徳一示寂の直後)とのことで、両説を並べてみた。
 承和11年(844)から天慶5年(881)頃に、信夫菩提寺でも天台教学の対立があった可能性
 「青巖と高寺伝説」が紹介する「安慧伝」では、「承和11年(844)出羽管内で唯識教学と天台教学の対立を紹介し、また以下の天慶5年(881)安積弘隆寺の建立を紹介する。
 天慶5年(881) 天台宗が、天台別院として、安積弘隆寺を建立
 会津仏教の会津と信夫の間の楔とする。(「青巖と高寺伝説」)この安積弘隆寺を確認していくと、その候補地として二本松市旧東和町の木旗山が想定されているらしい。

 ここに、不動寺前に建つ案内板から、先に整理した以下の事柄をそのまま並べる。
 ○ 1171年頃 鎮守府将軍藤原秀衡公(平泉)が大檀那となり、当地方祈願所・菩提寺として栄えた。(案内板)
 ○ 1189年―文治5年の戦いで、大鳥城などとともに寺の堂塔伽藍も焼失した。(案内板) 
 その後、1313年に藤原秀衡公の功績を讃えた記念碑を建立され、寺の名も5たび変わり幾多の変遷を経て、江戸時代に昔の不動寺にかえり現在に至っているとしている。(案内板)
 ここに、高寺堂跡に建つ案内柱が意識する菩提寺或いは高寺堂の焼失を、寺伝の「観応4年(1353)2月、南北朝の戦禍にあいこの寺は灰塵に帰した」とされるあたりを併記しておく。
 その後、弘法大師が道場を再興して真言宗の寺としたとする(案内板)をどう扱うのかは、素人には分からない。
 また、「802年 比叡山衆徒の兵火にかかり滅び」は、真言宗の寺なのか、高寺伝承にいう寺なのか、菩提寺=西原廃寺以前の宗教的な匂いにかかわる事なのかも素人には分からないとしておいた方がすっきりする。
by shingen1948 | 2013-01-09 13:13 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)