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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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気を感じて伏し拝む③

 先に整理した事と「青巖と高寺伝承」の考えを搦めて、山階寺(奈良興福寺)僧智興が信夫郡菩提寺を創建して以降の経緯を想像してみた。定額寺に昇格するあたり、そして、天台教学との対立あたりを勝手にイメージしてみた。
 しかし、西根神社が北の山々を背負っていることを意識するのは、その前の時代だ。信夫郡菩提寺が創建される以前に、この地がどうだったのかなということとのかかわりだ。
気を感じて伏し拝む③_a0087378_1159653.jpg
 「陸奥三山の一つで、末院は千有余あったといわれた「高寺堂菩提寺」の話は、高寺伝承とのかかわりを思わせる。そのことが、信夫郡菩提寺が創建された時点で、ここに全く宗教的な匂いの無かったということではないと勝手な思いを誘うということだ。
 高寺伝承がここでも史実として存在したかどうかにかかわらないことで、それよりも、ここにはすでに宗教的な匂いが存在していたことを思わせる。
 少なくとも、西根神社が背負う北の山々に、古くから日本人の基層となる信仰はあったのだろうと想像する。
 その場合が、先に整理した精霊崇拝・アニミズムという自然崇拝とのかかわりの存在だ。再掲すれば、「自然の山や岩、木、海などに神が宿っていて、尋常ならざる特別な力の源は太陽、山河、森林、海等から石のようなものにつくとされるとか。その尋常ならざる特別な力の源を神力と呼べば、その神力がつきやすい石を磐座として祀り、ここに神を降臨させ、その「依り代」と神力を祭りの中心とした」とか。
 若いころ2~3度しか登った事がないが「御在所」の名称の山、掘っても最後まで掘り切れなかったとする雷神の板碑の言い伝え等も含めて、散策を通して感じた雰囲気などともかかわる。
 
 史実とのつながりで、高寺堂跡に建つ案内柱が意識するのは、寺伝の「観応4年(1353)2月、南北朝の戦禍にあいこの寺は灰塵に帰した」とされるあたりのようだ。素人の見方で何の根拠もないが、これは菩提寺の滅びとかかわらせてもよさそうだと勝手な解釈。
 高寺伝承にかかわる宗教的な雰囲気の滅びの年号で勝手に気にしているのは802年頃の滅び。
by shingen1948 | 2013-01-08 05:20 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)