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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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気を感じて伏し拝む②

 神社の背景を意識するようになったのは、西原廃寺と会津仏教とのかかわりを意識したこととかかわるような気がする。

 西原廃寺の散策は、先に「湯野西原廃寺跡」として整理している。この時点で、ここが会津慧日寺の時代に、会津仏教とのかかわっていたことと、ここが菩提寺という定額寺に列する寺であった事は意識している。
  http://kazenoshin.exblog.jp/7678934/
 また、ここに高寺堂があったことも意識していて、「再び「西原廃寺」②~高寺堂跡」
 http://kazenoshin.exblog.jp/10152654/
 「再び「西原廃寺」③~高寺堂跡②」として整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10160395/
 意識的な違いは、これが高寺伝承もかかわるのかなと思ったことだ。そういう意味では、「会津の立ち寄りと忘れもの~高寺伝承」の続きということでもある。

 先の散策時点では、鈴木氏が、菩提寺は、830年に定額寺に昇格すると紹介されたことを元に整理している。それに今回の「会津の立ち寄りと忘れもの~高寺伝承」のかかわりで、「青巖と高寺伝説」の紹介をも重ねてみると、「徳一の晩年(「南都高僧伝」によると徳一示寂の直後)に、この信夫菩提寺は定額寺に列した興福寺別院の古刹であると認定されている。」とある。
 その「『南都高僧伝』による徳一示寂」を確認すると、「天長1年(824)7月27日、恵日寺より常陸国に下着す。76才」とのこと。通説の徳一出生は、この天長1年(824)76歳からの逆算で勝宝1年(149)とされるらしい。
 ここからは、信夫菩提寺創建が、天長1年(824)以前ということになりそうだ。

 更に、徳一側の通説を確認する。
 徳一は陸奥国にいたとされるのは、最澄と論争をしていた最澄の著作等からは、弘仁8年(817)頃から同12年(821)頃、空海の書簡からは、弘仁6年(815)頃が確認できるらしい。
 その中でも、長岡京遷都の延暦3年(783)以前に、「弱冠にして都(=平城京)を去」り、「私聚百因縁集巻7」の「大同1年(806)に奥州会津石梯山に清水寺(慧日寺)を建立」が通説らしい。そして、徳一に関係する多く寺院は、大同2年(807)を開創とするらしい。
 山階寺(奈良興福寺)僧智興が信夫郡菩提寺を創建したのも、大体はその頃なのだろうと想像する。

 西原廃寺跡の山頂に高寺堂跡とされる石碑が建つ風景と「高寺伝承」を重ねて想像する。すっきりするのが、不動寺前の案内板にある「「高寺堂菩提寺」と称し、陸奥三山の一つで、末院は千有余あったといわれたが、802年に比叡山衆徒の兵火にかかり滅び」の部分。
 「青巖と高寺伝説」が紹介する「安慧伝が出羽管内はみな唯識教学であったが、安慧の開講によって唯識教学を捨て、天台教学に入信した」とする承和11年(844)頃の対立とのかかわりを、ここに当てはめてみる。「比叡山衆徒の兵火にかかり」は、「兵火にかかり」があったかどうかは分からないが、少なくとも宗派的な対立があったことは理解できる。
 「802年」を「高寺伝承」とかかわらせて、その伝承寺の消滅とみれば、先に整理したことと、その後の以下の経緯が矛盾なくつながるように思うのだが、……。
 〇 1171年頃 鎮守府将軍藤原秀衡公(平泉)が大檀那となり、当地方祈願所・菩提寺として栄えた。(案内板)
 〇 1189年―文治5年の戦いで、大鳥城などとともに寺の堂塔伽藍も焼失した。(案内板)
 
 その後、1313年に藤原秀衡公の功績を讃えた記念碑を建立され、寺の名も5たび変わり幾多の変遷を経て、江戸時代に昔の不動寺にかえり現在に至っているとしている。(案内板)
 〇 1686年に現在の本堂は建立されたもの
 一つ残るのが、「この地に高野山を移し、万民に菩提の縁を結ばしめる」ため、道場を再興して真言宗の寺とした時期で、ここは素人には想像できない。
by shingen1948 | 2013-01-07 05:20 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)