気を感じて伏し拝む
2013年 01月 06日
気を感じて伏し拝むということからすると、その拝殿が北の山々を背負っていることを意識したのだ。
その山々には、先に散策を整理した湯野西原廃寺跡があり、その後ろに地元の方が高寺跡と考える山がある。
湯野西原廃寺は、マホロンの「福島の文化財」によると、「山階寺(奈良興福寺)の僧智興が信夫郡に開いたと『類聚国史』に記される『菩提寺』というお寺」と考えられているとのこと。また、「類聚国史」には、この菩提寺は天長7年(830)に定額寺(準国分寺)に昇格したとあるという。
また、この「山階寺の僧智興」という方が、慧日寺の徳一と興福寺で同窓であり、創建は、廃寺の金堂規模の大きさの考察から、慧日寺と同時期と推定されているとする。
その寺の創建の処には、何か尋常ならざる特別な力の源のようなものが宿る処とかかわっているのではないかという勝手なイメージを持っている。
その勝手な想像の元になっているのは、古くから日本人の基層となる信仰は、精霊崇拝・アニミズムという自然崇拝だということとかかわる。自然の山や岩、木、海などに神が宿っていて、尋常ならざる特別な力の源は太陽、山河、森林、海等から石のようなものにつくとされるとか。
その尋常ならざる特別な力の源を神力と呼べば、その神力がつきやすい石を磐座として祀り、ここに神を降臨させ、その「依り代」と神力を祭りの中心としたとか。
今年になって急に意識するようになったのは、位置的にはばらばらだが、確かにそんな感じの処があったよなと、散策したことを思い出していることとかかわるような気がする。