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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ「平清盛」視聴~第50話「遊びをせんとや生まれけむ」

 最終話は、清盛の最後が描かれる。
 これは、平家一門の滅亡と直結することであり、そのかかわりの中で4年後の「壇ノ浦の戦い」に破れ、安徳天皇とともに平家滅亡までが描かれるのは、想定内の事。ところが、ドラマでは当方の想定外の鎌倉時代、室町時代の幕開けまでふれてしまう。
 考えてみれば、このドラマのテーマ設定が、江戸時代まで続く武家政権の最初の扉を開いたのは平清盛ということ。そう思えば納得だが、普通にその後の物語展開とみれば、盛り沢山のイメージになってしまう。そう思うのは、当方の勝手な都合かなとも。
 本当は、現在地域散策として阿津賀志山防塁を整理しているのだが、これ等とうまくつなげられないかなという期待があって、それが裏切られたという感じもあったかな。

 さて、清盛の最後だが、「平家物語」では、巻6「入道死去」に描かれる。
 清盛が「頭風」を病んでいるという噂がながれて程なく、治承5年(1181)閏の2月4日、盛国の八条河原口にある屋敷で息を引き取る。享年64才とか。
 2日前の時子への遺言で、葬式や供養は不要であり、頼朝の首を我が墓前に供えることが私にとって最大の喜びであることを一族郎党はこれを肝に銘ずべしとしたとか。
 清盛は発病以来、湯水ものどをとおらず、身体の熱いこと火の如くだったと伝える。病床の清盛はやたら熱がり、水風呂につけて身体を冷やそうとすると、たちまち水が沸き上がって湯になってしまったとか。筧で水を引いて注ぎかけても、熱した石に水をかけたときのように、水がはじけて一瞬で蒸発したとも。
 清盛の死後、遺骸は荼毘に付され埋葬されるが、その墓所は諸説あるようだ。その有力候補は、播磨国山田の法華堂とか。その仮説のもとが「吾妻鑑」の清盛の遺言で、「播磨国山田の法華堂に納め 七日ごとに仏事をせよ、京で追善供養を行ってはならぬ」とか。

 ここで、いつもは要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」からお借りしてしめるのだが、今話は最終話で大テーマともかかわる。それで、まずは、やや詳しく整理されるNHKサイトの大河ドラマ「平清盛」あらすじをお借りする。
 http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/story/50.html
 「遊びをせんとや生まれけむ」
 突然の熱病に倒れた清盛(松山ケンイチ)は生き霊となって、遠く伊勢・二見浦にいる西行(藤木直人)の目の前に姿を現す。はじめはひどく驚く西行だったが、話を聞くうちに事態を理解し、清盛の霊に死期が近いことを説く。京では高熱にうなされている清盛を、平家一門が祈るように見守っていたが、手の施しようもなかった。
 一方、後白河法皇(松田翔太)は清盛危篤の報に接し、思いつめたように今様を歌い、踊り続ける。
「♪遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけん♪」
 生に執着する清盛の様子を見かねた西行は、思いやりあふれる言葉で諭す。そして西行の言葉でようやく自分の寿命を受け入れた清盛は一門の前でむくっと立ち上がり、「―きっと、わが墓前に、頼朝が首を供えよ!」と言い遺し、1181年の春、絶命する。64年の生涯だった。
 西行は京の平家一門を訪れ、清盛の遺言を伝える。二見浦の庵で清盛と交わした最後の会話がみんなへの遺言だったのだ。西行の姿はいつしか清盛そのものとなり、それぞれに遺言が伝えられた。
 その後も、平家は一連托生の強い絆のもとにそれぞれ戦った。源氏軍の侵攻により、都落ちを余儀なくされたのは1183年。この都落ちはそれぞれの行く末に多大は影響をもたらした。頼盛(西島隆弘)は清盛の遺言を受けて、平家の血を守ろうと考え鎌倉の頼朝(岡田将生)を頼った。侍大将の忠清(藤本隆宏)は伊勢で戦ったが捕縛され、斬首となった。その後、態勢を立て直した平家だが、一の谷で重衡(辻本祐樹)は捕らえられて斬首となり、逃亡した維盛(井之脇海)は後に入水して果てた。
 壇ノ浦でも多くものが西海に散った。総大将の知盛(小柳友)は勇猛果敢に戦い、最後は錨を体に巻きつけて海に沈み、宗盛(石黒英雄)は死にきれずに海でもがいているところを捕縛され、のちに斬首された。徳子(二階堂ふみ)は捕らえられ、のちに出家して建礼門院となり、一門の菩提を弔う生涯を送った。時忠(森田剛)は配流された能登国で生涯を終えた。そして時子(深田恭子)は安徳天皇(田中悠太)を抱き、「海の底にも都はござりましょう」と言って海に身を投じた。鎌倉のとある館では捕縛された盛国(上川隆也)の姿があった。盛国はひと言も発せず、飲食を断ち、餓死による自害を選んだ。亡くなった盛国を弔う琵琶法師はかつて禿の長として京を震撼させた羅刹(吉武怜朗)だった。
 平家を滅ぼした頼朝が、次に退けねばならなかったのは、弟・義経(神木隆之介)だった。身内同士で殺し合う苦しみをよく知る頼朝は、幾度もしゅん巡するが、最後には弟の追討を決意する。
 1186年、頼朝のもとへ西行が訪ねてきた。西行は頼朝にも清盛の遺言を伝える。「まことの武士とはいかなるものか見せてみよ」という言葉をうけ、頼朝は自分の進むべき道を定めた。
 1189年、奥州藤原氏を頼ろうとした義経は衣川で兵に襲われ、孤軍奮闘するも、弁慶(青木崇高)は多数の矢を受け立ち往生し、義経は自害して果てた。
 1190年、頼朝は上京し、後白河法皇と対面した。後白河法皇は老いを感じさせるうつろな目で頼朝を迎えた。その一年後、後白河法皇は亡くなり、頼朝もその7年後に死んだ。そして頼朝が開いた幕府が滅んだ後の足利の世となって清盛が目指した国と国との交易が行われるようになった。

 そして、海の中を落ちていく宋剣がある。その剣をつかんだのは、若き日の清盛だった。清盛は兎丸(加藤浩次)の声に導かれ、海の中にある館に入っていった。すると清盛の前に平家一門が笑顔で待っていた。「海の底にも都はありまする」、時子の声に振り向いた清盛は、夢中で遊ぶ子どものような笑みをたたえていた。
<完>

 最後の最後は、今までと同じ形式で、その要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」からお借りしてしめる。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_50.html
 「遊びをせんとや生まれけむ」<最終回>
 清盛(松山ケンイチ)は熱病に倒れた。生霊となって西行(藤木直人)のもとへ現れた清盛は西行との問答のなかで、自分の人生の意味を知る。一方、京で倒れた清盛の肉体のもとへは、続々と人々が駆けつけ、病床の清盛をよそに、口々にこれからの心配ごとを語りだす。そしてついに、清盛は死す。その後、一門の運命は坂をころがるように変転し、ついに壇ノ浦での滅亡に至る。安徳(田中ゆうた)を抱いた時子(深田恭子)は、海峡に沈み、海底には平家一門の姿が…そこには青龍刀をかかげる若き日の清盛の姿があった。

 どうでもいいことだが、話題の視聴率は今回9.5%で、全体の平均視聴率が12.0%とのこと。
by shingen1948 | 2012-12-26 18:45 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)