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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津の立ち寄りの忘れもの~恵隆寺と高寺伝承と

 今回立ち寄った恵隆寺は、高寺伝承とのかかわりを強調する。
 しかし、「青巖と高寺伝承」では、それよりも宇内本寺地区の方がそのかかわりが強いのではないかとみているように思う。慧日寺以前に実証的にさかのぼることはできないとする「会津の古代史」も、それでも気になる事として宇内薬師を挙げている。
 まだ確実に読み取っているわけではないが、高寺伝承は慧日寺以前の実証困難な時代までさかのぼる。ということで伝承ということのようだが、それが史実としてあり得るとするなら宇内地区という感覚かな。

 恥ずかしながら、今回の立ち寄りで初めて意識したのが、古代会津の文化伝承の道は、北陸からの延長線上を考えるらしいことだ。思いだせば感覚的に日本海側とのつながりを意識した生活感覚があった。思えば、最初の小学校修学旅行も新潟だった。この感覚が、何時の間によく語られる戊辰戦争メインの会津のイメージに引きずられて隠れてしまっていたようだ。
 その越後街道だが、恵隆寺の沿革を読むと、塔寺が越後街道の本道となって繁栄するのは、慶長の大地震以降ということらしいことが分かる。その時に、ここが駅所宿場化されるということらしい。
 それ以前の越後街道の本道ということになると、一本北側の道筋をイメージするらしい。これも宇内地区と重なるという事になるらしい。
 ここを深く散策する積りはない。多分、用事のついでの簡単な立ち寄りになると思うが、次の立ち寄り候補としては、明見集落付近経由で、宇内地区とやらの雰囲気の確認もしたいなと欲が広がってはくる。

 高寺の本寺が降りてきたのが宇内地区だというのなら、今度気になるのが、今回立ち寄った恵隆寺の旧地はどこということだ。その根拠までは読み取っていないが、「青巖と高寺伝承」では、窪集落の高寺山時代の房寺とみているように思う。
 今のところ、ここまで立ち寄りで足を延ばそうとは思っていない。
 ※ 高寺伝承要旨(「青巖と高寺伝承」より)
 欽明天皇元年(540)中国梁国の僧青巖(せいがん)、会津に来たりて高寺山に草庵を営み高寺と称す、その頃は仏教未だ東漸せざる以前のことなり、次第に繁栄し堂舎、子院3000余宇に及ぶ。宝亀6年(775)兵火に罹り遂に廃絶す
 これが、「新編会津風土記」・「新宮雑葉記」・「旧事雑考」・「恵隆寺縁起」等に採録されているという。
by shingen1948 | 2012-12-17 07:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)