地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津の立ち寄りの忘れもの~恵隆寺②

 恵隆寺ホームページの略年表と照らし合わせると、恵隆寺が、現在地に移転してくるのが、建久元年(1190)。年表では、「建久元年(1190)高寺おろしとなり、現在地に移転、金塔山恵隆寺と 改め伽藍を整備して再出発する。現在の観音堂 建立、このとき記念植樹された樹木が三本残る。」とある。
 「会津仏教史」では、この建久元年(1190)の移転は、会津の総鎮守とされる心清水八幡宮の勧進に伴い、その神宮寺として併立されたものとするらしい。ここに観音堂が建てられるのも、この頃という事になるようだ。
 「恵隆寺①」で整理した「大同年間806~809に、慧日寺の徳一によって恵隆寺を中心に高寺山が再興されたとするというのは、それ以前の出来事。
 この頃を同じ恵隆寺ホームページの略年表で確認する。
 延暦23年(804)恵日寺再興開始、利仁・空海・田村麿協力する。
 大同3年(808)本尊千手観音像開眼、伽藍建立
 康保元年(964)東北の高野山と称される、空也上人参る。
 養和元年(1181)源平合戦の渦中に入る。恵日寺乗丹坊、城四郎長茂に攻撃される。
 本当は、ここの主語が分からない。
 これ等の事が、恵隆寺の旧地で経緯したという事なのかもしれない。現在の恵隆寺のある旧慈光院弥勒山 清水寺の歴史とも見える。更には、恵日寺が再興した本寺は別にあって、そこで刻んだ歴史ともとれる。それは、分からない。
 素直に読みとれば、現在恵隆寺のある塔寺での歴史だといっている可能性が高いとは思う。それなら、小金塔があった所は、慈光坊であり、後に慈光院弥勒山清水寺と名称を変えた寺ということでいいのかな。36坊で繁栄したのも、養和元年(1181)源平合戦の渦中に入り、恵日寺乗丹坊、城四郎長茂に攻撃された時代も、この清水寺の事かなとも思う。
 なお、大同3年(808)本尊千手観音像開眼、伽藍建立は別地に建立されて、その後現在地に移動されたとも読み取れるが、それでもいいのかな。
by shingen1948 | 2012-12-16 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)