地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「桑折西山城跡<西舘>」現地説明会に出かける⑤

 木の根を剥ぐと直ぐに、石がびっしりと検出されたとか。
a0087378_4525449.jpg この散乱状況が、通路の両側から通路の両脇から中心に向かっていることから、内桝形内部にあった石積みが崩されたとみるようだ。その崩される方向性から、「耕作のために、畑の石を除去して積み上げた石積み」ではないとみるようだ。
 これらのことから、戦国時代に「独自の技術で築かれた石積み」が意図的に壊された状態と見るらしい。
 
 報じられている事は、奥歯に物の挟まった慎重な物言いだが、散歩人の立場では、気になるのはストレートにその仮説の方。頂いた資料で、この仕事の主を伊達政宗と推定する仮説が読みとれる。
 報じられる「石積みの構造は、安土桃山時代以降に各地に伝わる関西地方の石垣構築技術でなく、戦国時代の山城で独自の技術で石積みが築かれた」という表現は、構築の可能性のある上杉氏でもなく、蒲生氏でもないということと、伊達氏である事の可能性が高い事を想定し、それが壊された状態で発見された状態ということなのだろう。
 資料と照らし合わせれば、「関西地方の石垣構築技術」というのは「石垣の内側に土台になるような小さな石を詰め、外側にくる大きな石を支える構造」らしい。それと、ここでは大小の石をバランスよく積み上げていたと想像されるということも、その根拠とするらしいことも伺える。

 先の中舘の現地説明会では、本丸と同じころに造られた城を埋め立てて、現在の城跡になっているということだった。また、ここには、門や柵も含めて建物跡は見つかっていないとのことだった。そして、今回の調査では、西舘と中舘の橋も未完であったことから、中舘の改修工事と西舘の建築工事は未完に終わっているらしい事を想像するようだ。
a0087378_458751.jpg
 この仕事の主を伊達政宗とみれば、伊達政宗は天下の軍勢を迎え撃つために、古い西山城を大改修する。 しかし、豊臣秀吉は天正18年(1600)天下統一することにより、政宗がその抵抗を断念したこととのかかわりとみるようだ。
 この西館の枡形状虎口の石積みが崩された風景は、政宗が城の改修を断念し豊臣秀吉に降伏して、廃城の意思表示をした姿だと想像しているらしい。これが、報道が言う「全国的にも貴重な発見」という表現に結びつくのかな。
by shingen1948 | 2012-12-11 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)