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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ「平清盛」視聴~第45話「以仁王の令旨」

  「古代会津の歴史」に「高倉宮以仁王流転の伝説」が紹介されるのだが、よく読みとれていなかったのが、以仁王の無念な心情。ドラマでは、そこのところを丁寧に描いてくれた。
 先に伏線として登場させて、その後に物語が進行し、そして、遂に今話で「以仁王の令旨」という構成で、その心情が丁寧に描かれる。よく読みとれていなかった部分がこれですっきり。
 治承4年(1180)高倉天皇は譲位し、幼い清盛の孫が即位して安徳天皇が誕生し、平家と清盛にとっての最終的な権勢の頂点に達する。ここで起こったのが、後白河の第三皇子で高倉帝の異母兄である「以仁王」の謀反。これまで不遇の地位にあった以仁王は、源頼政と組んで、突然平家打倒を呼びかける令旨を 全国の源氏に向け発令する。
 次回には、以仁王の令旨を知った清盛が激怒し、以仁王、頼政らが捕らえられ、鎮圧されるのだろう。頼政は宇治川で敗戦し、以仁王は園城に脱して、ここでも敗れ、光明山の鳥居前で戦死されたという。

 ここから「高倉宮以仁王流転の伝説」につなげれば、伝説を楽しめるのだろうか。
 「古代会津の歴史」によると、この伝説の原本は、「御墳墓考【宮城三平著】」とのこと。宮城三平氏は、会津の郷土史家として有名な方とのことだ。
 その伝説では、この後、以仁王は桧枝岐村を通過して、東蒲原郡小川荘まで落ちのびていくらしい。その概要は、以下のようだとか。
 宇治川で敗戦後、奈良路から近江の信楽に逃げる。そして、東海道を経て甲斐、信濃・上州沼田から片品川に沿って尾瀬沼畔に達して、ここから福島に入る。
 尾瀬沼畔から沼山峠を越えて桧枝岐に来ているとする。
 一行は、ここから下流伊南川沿いの各地に伝説を残しながら、只見川叶津から80里越えを経て越後に入り、小川荘中山村で逝去。ここに高倉天皇御陵ができるという物語らしい。
 「御墳墓考」では、ここに、いろいろな通路、宿泊地、滞在日数、合戦場所まで詳細な記述があって、それを史実だとしたらしい。
 例えば、この一行には、尾瀬中納言藤原頼実もついていて、その兄大納言頼国が桧枝岐に留まったとされるとか。また、会津より江戸への裏街道南山通り大山宿では、この「御墳墓考」の記述に基づいて高倉神社がまつられ、頼政の子乙部重朝の娘と伝える宮の愛妾桜木姫が旅の疲れで倒れたとした立派な墓までつくられたとか。

 ドラマの方は、これから、清盛は安徳のための都として福原への遷都を強行し、8月には、以仁王と頼政に刺激された東国武士たちの思いを受け、頼朝が打倒平家を掲げて兵を挙げるという展開にすすむのかな。

 第45話「以仁王の令旨」の要点をエキサイトドラマ特集「大河ドラマ「平清盛」よりお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_45.html
 「以仁王の令旨」 
 後白河院(松田翔太)を鳥羽離宮に幽閉し、クーデターをおこした清盛(松山ケンイチ)は、ついに武士として初めて天下の頂に君臨する。清盛は福原にいながら、朝廷の人事権を掌握し、高倉帝(千葉雄大)に安徳帝への譲位を迫るなど、思いのままの政を展開していた。一方、治承3年の政変で、不遇に言づかった鳥羽院の嫡流・王家の以仁王(柿澤勇人)は、源頼政(宇梶剛士)に接近し、武力決起による平家討伐を考え始めていた。伊豆でも、高い租税に困る東国武士たちは、徐々に平家への不満をあらわにしつつあった。そして義経(神木隆之介)は弁慶(青木崇高)とともに奥州藤原氏を頼り、力を蓄えつつあった。頂にたち、孤独の中で我を失い始めた清盛をよそに、各地で反平家の火がくすぶり始めていた。2月21日、かねてよりの清盛の望みどおりに、高倉帝が譲位、上皇となる。清盛は言仁親王(安徳帝)の即位の儀を福原で行うといいだし、周囲を驚かせる。
 今話視聴率は、大幅ダウンの7.3%で、最低視聴率更新とか。
by shingen1948 | 2012-11-22 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)