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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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磐椅(いわはし)神社⑤~キリシタンの視点で

a0087378_415220.jpg 途中でキリシタン殉難の地入り口の案内を見たが、今回の寄り道はここまでにした。
 キリシタンという言葉から頭に浮かぶのは、会津の殿様にキリシタン大名に蒲生氏郷がいたなといった程度。家に戻って、猪苗代町史等を確認したら、猪苗代の領民がことごとくキリシタンになった時代があったという。その視点で、磐椅神社や土津神社を眺めれば、別な見え方になるらしいことが分かる。

 今回の磐椅神社の散策や迷い込みをした見袮山のどこかに、その時代にセミナリヨ(神学校)があったらしいということでもあるらしい。
 隣り合わせの位置にあったと磐椅神社は、その影響が大きかったこと推測されるが、あおりを受けた神社仏閣の経営が破綻してしまいそうな困窮ぶりが紹介されているのも見た。
 宝永3年(1706)の「磐椅明神旧記」には、「社人等は切支丹のために苦しめられ離れ散りて奉仕の途も無之様と相成候、されば元和の前後二十年か程は神官も絶えて社殿は損じ御物も多く紛失し、鐘楼、回廊を始め社人の社宅等、皆切支丹宗徒のため焼き尽くされ候由」との記載とか。

 猪苗代町史等によれば、特にキリシタンが全盛だったのは、岡越後が猪苗代城城代だった慶長14(1609)年から元和8(1622)年の14年間だったとする(会津藩主蒲生秀行の時代)。セミナリオ(神学校)を建て、亀ヶ城の外堀の内側に「天主の宮」を建てたのは、この岡越後らしい。
 情報をつなげれば、江戸初期に磐椅神社社領を全て没収されたという情報と、この岡越後が猪苗代城城代だったこととが重なるのかな。この時に神官は逃れた右近山から磐椅神社を見守ったという情報も見たような気がする。
 元和8年(1622)には、岡越後は城代を罷免され、岡左衛門佐が城代になるのだが、今度は、猪苗代の大殉教が起こる(会津藩主蒲生忠郷の時代)。

 先に確認した磐椅(いわはし)神社の沿革の以下の部分をこんなふうに修正すればいいのかな。
 天正17年1589摺上原の戦いの後は、衰退し、江戸初期、会津藩主蒲生秀行で猪苗代城城代が岡越後のとき(慶長14(1609)年~元和8(1622)年)に、社領を全て没収され神官らも離散した。
 元和8年(1622)頃には、その勢いは収まるが、万治2年(1659)会津藩祖保科正之が当社に参詣して社殿を復興する。

 詮議が成就院で行われたということにかかわって、今回の散策と迷い込みとのかかわりで気になるのは、六地蔵の情報かな。
 「猪苗代の野仏(猪苗代地方史研究会)」の「調査を終えて」という項でこの院とのかかわりで、以下の地元の方の恐れおののく表現が気になった事を記した。
 見祢「成就院」:吾妻山の研修洗礼の場所と聞く不動尊
 ―カメラにおさめると目がつぶれるという……
 ―御神体を出そうとしたが手が震えてどうしても出せなかった……。

 これを修験に対する恐れおののきの表現と見ていたが、これに詮議を受ける切支丹の怨念も加わるのかな。表現をよく見れば、「研修洗礼」という表現も見える。
by shingen1948 | 2012-11-21 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)