人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

磐椅(いわはし)神社④~田中正玄公の墓

a0087378_5514686.jpg  磐椅神社への立ち寄りの興味をもう一度確認すれば、昨年保科正之を祀った土津神社に立ち寄ったこととのかかわりだ。保科正之公が、自らが神になる地を定めるのに、実際にこの磐椅神社参詣をしたのだが、その折に、田中正玄公の墓にも立ち寄られたらしい。
 今回の立ち寄りは、用事があって来たついでで、しかも、迷い込んだりしたこともあって、ちょっと遅くなっていたのだが、ここにも立ち寄ることにした。

 田中正玄公の墓については、猪苗代観光協会のページでは、以下のように紹介される。
 http://www.bandaisan.or.jp/enjoy/site/
 田中正玄は保科正之公の重臣であり、会津藩の家老を34年間、猪苗代城代を5年間務め藩の基礎を固めた人です。慶長18年(1613)6月17日佐渡に生まれ、16歳で信州高遠で正之公に仕えた後、累進して家老となりました。正之公が江戸で4代将軍家綱の補佐にあたられたので、その留守の間会津藩の執政を預かって大きな功績を挙げました。寛文12年(1672)5月28日に病で没した時には正之公はじめ城下の諸氏庶民は親を失った如く嘆き悲しんだといいます。
 現地に建つ案内板の記載から補足する。
 その一つは、田中公の政務心得が、以下三点とか。
 一つ、君の心を正すこと
 一つ、士を愛すること
 一つ、庶民をあわれむこと
 二つ目は、経歴にかかわる事。
 「正玄の父は、佐渡銀山奉行であったこと」と、寛文12年(1672)5月28日病没だが、「享年は、62歳であり、この年の6月2日に磐梯山の南麓に葬られた」とのこと。
 そして三つ目だが、保科正之公が立ち寄られた事について、以下のように紹介されていた。
 この年の8月21日正之公は、自らの墓地を見祢山に定め帰途正玄の墓に立ち寄られ「正玄ここにあるか、我も近く参るぞ」と仰せられた。供の者皆流涕して仰ぎ見ることが出来なかった。
 ここに立ち寄ったのが、この三つ目の事とのかかわり。昨日整理した「寛文12年(1672)の8月に会津藩主保科正之の(磐椅神社)参詣し、この時に没後未社としてこの地に葬ることを遺言した」ことと重なる部分だ。
 なお、地図に「御廟」とあるのが、この田中正玄公の墓のことらしい。磐椅神社参詣からこちらに向かわれるルート、或いは、南側からこちらに向かうルートは分からない。
by shingen1948 | 2012-11-20 05:53 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)