地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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磐椅(いわはし)神社④~大鹿桜

a0087378_558376.jpg 地元では、大鹿桜が有名で、会津5桜の一つらしいという事を知ったのは、家に戻ってからというお粗末。
 これは、メモ代わりに案内板を撮ったのだが、大鹿桜がその後方に写り込んでいたもの。
 この見逃しも、無計画な立ち寄りのせいだと思う。
 
町指定天然記念物
 大鹿桜
 昭和44年8月1日指定
 別名「翁桜」とも称され会津の五桜の一つに数えられている名木で、花の色が白からしだいに鹿の毛の色に変化するところから、この名前がつけられた。
社伝によると、今より約一千年前天歴年中(947~957)村上天皇の勅使が参拝の時に京都から持ってきて植えたとなっている。現在はその子孫である。
樹の種類はサトザクラの一品種である。花の中心からおしべが緑化したものが出ているので、ちょうど花の中から葉が出ているように見える珍しいものである。
福島県緑の文化財第一号である。
 猪苗代町教育委員会
 (平成4年11月1日設置)
 なお、昨日整理の鳥居杉にかかわって、「えんむすび桜」の案内には気づいたが、気に留めていなかっただけだが、付け加えておく。
 鳥居杉は、昭和33(1958)の台風で倒壊し、昭和61(1986)年には完全に倒壊するのだが、この幹の途中から、桜の木が育っていることから、杉と桜が縁を結んだということにちなんでいるとのこと。

 ここまでに得た情報と、案内板にある神社の由緒を関連付けて整理すれば、以下のようになるかな。
 
 天平元年(西暦729)8月25日に、磐梯山頂から見祢山南麓の大鹿桜のかたわらの位置に、磐椅(いわはし)神社が遷座する。そして、天暦年代(947~957)に、磐椅神社に参拝した村上天皇の勅使が、京都から苗木を持ってきて植えた。
 元久2年(1205)に、猪苗代城主三浦経連が、磐椅神社に社領を寄進し、その2年後の承元元年(1207)夏に、磐椅神社が現在の地に遷座し、その時に、この鳥居の杉として社前に植樹される。
 天正年中の伊達政宗による摺上原の合戦後、磐椅(いわはし)神社は一時衰微するが、会津藩主保科正之公が、寛文年中に社殿を造営する経緯とつながる。
 万治2年(1659)には、正之公が当社に参詣して、没後は土津神社をこの末社とすることを告げて神事を行う。

 「文徳実録」巻7に、斉衡2年(855)正月28日に陸奥国磐椅神に従4位下を加えるとあるらしい。確からしさも考慮すれば、おおよそこんなことかなと思うが、案内板の神社の由緒では、磐椅神社が磐椅山(磐梯山)の峯へ鎭座する以下の神社の起こりまで遡って説明される。
 応神天皇の御代、神功皇后摂政の時、武内大臣の巡視の折に勅命を奉じ、国土開発の神なる大山祇神・埴山姫命を磐椅山(磐梯山)の峯に鎭座されたとか。応神天皇の御代は弥生時代かな。神功皇后摂政の時は西暦250?かな。
 「磐椅王国」でいう「この神社は、古くから会津嶺の神として最も崇拝され、その格式も高く、往時は社殿も壮麗で、神興の御渡や流鏑馬などの神事もおこなわれた郡内-の大社であったといわれていた」ことかな。
 なお、ここでは、会津藩主保科正之の参詣は、寛文12年(1672)の8月で、この時に没後未社としてこの地に葬ることを遺言したとある。
by shingen1948 | 2012-11-19 06:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)