模擬原爆と福島②~模擬原爆投下と着弾情報から
2012年 10月 29日
その一つは、投下したB29と模擬原爆の関係のようなもの。
投下地点から着弾地点へ流れた方向は、投下地点で与えられた力のベクトルを示すものであり、その距離は与えられた力の大きさを表すものだろうと想像される。つまり、投下したB29の方向と力(大きさと速さ)がイメージできるということだ。
ここらあたりの上空で、模擬原爆は投下されたのであろうということだが、少なくとも放出された時点で、B29は西から東に向かって力を与えたという事である。ということは、この西側からB29は飛んできたという事であり、その方向の先が、B29の福島盆地への進入路であろうと想像することができる。
B29が福島盆地へ進入してきて空襲警報のサイレンが鳴り響くと直ぐに、模擬原爆は投下されたのではないかな。
投下された模擬原爆は、渡利地区に放物線を描いて落ちて行くのだが、その間に住む地上の人々にとっては、その頭上を通過したということだ。その模擬原爆の上方には、上方に旋回するB29が重なっていたであろうか。あるいは、着弾地点確認のため、そのまま進行してきたという状況だったのであろうか。
地上の方は、一瞬の短い時間ではあったろうが、上空を模擬原爆とB29が渡利に向かって飛んで行く姿を見たかもしれない。少なくとも、その頭上からB29の飛行音と5tの模擬原爆が落下する音は聞いて恐怖したはずだ。
北にそんな状況を想像しながら天神橋まで歩いてみる。その間の北側方向には県庁があり、医大があり、(その時代の旧女子師範とのかかわりはこの時未確認)日赤がある。
情報の中に、「爆音は福島まで轟き、福島駅近くの事務所のガラスも割れ、被害は半径2㎞に及んだ」というのがあるが、もしかすると、この福島市の爆音と福島駅近くの事務所のガラス割れは、この頭上を放物線を描いて落下する模擬爆弾と低空で通過するB29状況とのかかわりもあるのかもしれないとも思う。
体験が聞こえてくるのは渡利からだが、投下から着弾までの時間の恐怖を、福島市内で感じた方もいらっしゃったのではないかなと想像する。
そして、渡利地区への着弾が、昭和20年(1945)7月20日午前8時34分。
ここからは、先に整理した以下の情報につながる。
当時14歳だった1人の少年が命を落とす。その状況は、投下地点から約30m離れた自宅近くの田んぼで草とりをしていたところを、爆風に襲われたということだ。また、農家2軒が焼けた事、破片が村中に飛び散ったことで、裸足で耕作できなくなったという。
また、爆弾の落ちた地点の穴は約90mで、暫くは沼になっていたため、その辺一帯(現在のわたり病院○付近)を「沼之町」と呼ぶようになったとか。
北に200mほど離れた学校のガラスも全部吹っ飛んだとあるのは、現在の渡利公民館だろうか。爆音は福島まで轟き、福島駅近くの事務所のガラスも割れ、被害は半径2㎞に及んだなどの状況が説明される。
この爆弾の破片が瑞竜寺に残されたのは、亡くなった少年の父親が拾って、「息子のかたき」と寺に預けたものとのことだ。
講演会で提示された投下と着弾の情報から、こんな想像をしてみた。