大木戸付近通過を想定する東山道の道筋~旧道諸説⑤
2012年 10月 01日
この地点を通るとする東山道説は、おおよそ奥州街道に近い道筋を想定するらしい。
細かい部分ではいろいろなずれがあるが、大きくずれるのは、道筋が卍になって宿場に入りそして、宿場を過ぎてもう一度卍に抜ける道筋を、直線で結ぶようなイメージのようだ。
例えば、藤田宿付近の道筋では、藤田の鹿島神社付近まではほぼ奥州街道に近い道筋をたどり、街道筋としては藤田宿に入るために卍に道筋をとって進むのだが、そこを直線で藤田宿を越えて、南側の奥州街の道筋に結ぶというような感じ。
この道筋に直してこの道筋を眺めてみると、頼朝方の本陣が藤田舘に置いたのではないかとの想像に説得力が増して見えてくる。
次の桑折宿付近も同様で、この宿を直線で越えて奥州街道に結べるような道筋を描くことになって、おおよそ奥州街道と重なるような道筋を描くようになる。
しかし、奥州街道と重なって東山道を描く道筋も、桑折町の一里壇から堀切端付近までだ。一里壇―堀切端付近から、一度東湯野の字山道辺りまで西進して東湯野に回り込む道筋を想定するらしい。そして、その辺りから南進に変わるようにイメージするようだ。
東山道は直進が原則と聞く。
それなら、そのまま奥州街道と重なるような道筋で進んで、先に整理した信夫山の東側を回り込むと想像された方の東山道とそのままドッキングすればよさそうに思うのだが、そういうイメージではないらしい。
信夫山を回り込むために東側にずれた道筋を戻そうとして描いた道筋が、再び国見越えのための道筋に変わる変換地点が東湯野から一里壇―堀切端付近の東西に走る道筋と見ればいいのかな。