地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大木戸~旧道諸説③

 江代正一氏の「古代道」では、古代道の遺構として、その痕跡例として、群馬県新田町大東遺跡・平野を一直線に走る道路痕跡(佐賀県)、西国分寺地区の推定東山道跡を紹介し、福岡県豊津町下原の空中写真に写る駅路痕跡例なども紹介する。
 発掘された古代道の遺構としては、静岡県静岡市曲金北遺跡「東海道駅路」、群馬県玉村町砂町遺跡を紹介する。
 そして、県内の発掘例として、郡山の荒井猫田遺跡の東山道を紹介する。ここは、9世紀前半の路面幅9m、延長150mの古代東山道とのことだ。

 そこには紹介されないが、県内のもう一つの情報がある。
a0087378_3433713.jpg
 それは、今年の国見町の阿津賀志山防塁の現地説明会で、防塁全体を説明する図に描かれていたものだ。ここが、阿津賀志山防塁と東山道とのかかわりが図示されている部分だ。
 
 この地点の防塁前に東山道の痕跡を発掘したと説明されたのは、2008年 10月の阿津賀志山防塁の時だった。ここは地区的に森山地区で、木戸口付近の説明の中だった。この説明の中の土橋の痕跡が、「東山道の痕跡」の発掘としたはずだとした部分を「阿津賀志山防塁現地説明会②~木戸口」として整理している。
http://kazenoshin.exblog.jp/7587527/
 この時の興味は、頼朝本隊と奥州藤原氏の決戦で、説明の中では、この防塁の後ろに兵溜まりの想定、ここで両軍が対峙したイメージで話を聞いていたようだ。
 その後に開かれた説明会にも出かけてきているが、その後方の道筋とつながる形で「東山道」の延長線が引かれて提示されたのを見るのは初めてだと思う。

 前回の説明会に出席した時には、子規が汽車に乗ってこの大木戸を超える道筋を探って整理していて、阿津賀志山防塁の発掘調査現地説明会そのものの整理をしていなかった。この回の説明会も、「東山道」にずれてしまっているかなとも思う。
 今回はそれだけでなく、この阿津賀志山防塁が縄文遺跡と重なっている部分があって、発掘調査自体は阿津賀志山防塁にかかわるものだが、そこに縄文時代の遺物らしきものもちらほら見えて、遺跡に興味のある方はこっそりとそちらの遺物に関心を示すのを見たりしてしまったりもしている。

 別な見方をすれば、阿津賀志山防塁の規模がそれだけ大きいともいえるかも。
 更には、発掘調査現地説明会には欠かさず出席させていただいているが、説明のない所でも穴掘りはされていて、今思えば、その道筋に沿った辺りにも青いビニールシートで覆われていた所も多かった。調査は行われていても、成果が出なかった所は説明されない。
 そういった成果のない積み重ねを経て、今年は防塁の中に東山道を描いてみたのではないかなと想像する。
Commented by TUKA at 2012-10-19 20:13 x
「近世ふくしまの国絵図」という本に「陸奥国福島領絵図」が取り上げられてました。
藤田付近の図が収録されてまして、それを見ると「腰掛松」付近から阿武隈川に向かって3本線が描かれてます。
二重堀を表現したのでしょう。
その脇に「伊達大木戸跡」とあるので、当時は防塁全体を大木戸と呼んでいたようです。
Commented by shingen1948 at 2012-10-23 06:06
情報ありがとうございます。
まだ確認していませんが、阿武隈川に向かって3本線というのが気になっています。当時は、二重堀+西根上堰かなと思ったり、前回の説明会で、この辺りの防塁が三重堀になっているところもあるというのもあったりして、……。
もう一つ、古道の坂道とされる道筋も、確か防塁と平行線だったかもとも、……。

その防塁を越す口が、森山地区だったということで、ここを石垣で塞いだのが明治になってという事のようなので、芭蕉さんもここを通ったのでしょうかね。道筋としては、長坂とのかかわりが気になってしまうところも、……。
by shingen1948 | 2012-09-29 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(2)