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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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久しぶりに鯖湖湯に入る~夏の頃⑦

 客人が置いて行った冊子の「現代も魅力あふれる「おくの細道」の東北」特集記事では、福島辺りを正岡子規の目を通した紹介になっている。
 「飯坂温泉」は、「(信夫文知摺石」を見た後)子規は、疲れた体を休めるため、芭蕉も浸かった飯坂温泉の湯を楽しむ」との紹介で、そこに医王寺も以下のように紹介される。
 この飯坂温泉からほど近い場所に医王寺がある。義経ファンだった芭蕉が、ここに義経の太刀と弁慶の笈があることを知り、「笈も太刀も、五月にかざれ、帋幟<かみのぼり>(五月は男の節句だから、寺宝として伝わる弁慶の笈や太刀をのぼりと一緒に飾ってほしい)」と、感激して歌を詠んだ場所だ。子規は興味津々だったが、体調が優れず結局訪れる事が出来なかった。

a0087378_503044.jpg この医王寺は、市毛氏が紹介したかったのだろうと想像される。
 そのこだわりを想像するのは、紹介者の視点である子規は訪れなかったのに紹介しているということもあるが、客人が置いて行った冊子の「現代も魅力あふれる「おくの細道」の東北」の題字とその解説が、ぼかしの入った医王寺の参道と医王寺境内の芭蕉像の写真を背景に配置されていることもある。

 子規の視点と医王寺の観点で確認する。
 飯坂温泉での子規は、二十六日は、飯坂の温泉を味わって身も心も休ませている。
 まずは、朝の十綱橋までの散歩だったということだ。朝の冷気が単衣を透して、あたかも二三月と擦れ違っているようだった。(※単衣:裏地のない和服のこと。慣習として6月から9月まで)
 氷室だにあるべき山のいで湯かな
 そして、旅亭に帰ってからは昼寝する。その夢の中で一句を得る。ちょっと心に残ったというので、それを記している。
 涼しさや羽生へさうな腋の下
 先に記したことだが、「はて知らずの記」には、ここで出会った16~17歳のここで働く若者との会話が紹介される。
 「この若者は、生れは越後で、早くから故郷をはなれて、諸国をさまよっているようだ。今は此地に足を留めているが、初めからここに落ちつくつもりもなく、日本中を見物して渡っていく覚悟という。しかし、出来るならアメリカに渡ってみたいといったとか。
 年若いのに志が大きいので面白く、いろいろな事を話した。名は何というと聞くと、平蔵と答へたとある。それで、戯れに詠む。
 平蔵にあめりか語る涼みかな
 明日27日は、土用の丑の日なので、近くの村々から来る浴客は、夜になって絶えない。旅店は空室が無く、青楼余妓もないという盛況だったとのことだ。」

 ここで、「はて知らずの記」は、大鳥城の佐藤氏を紹介する。
 「当地は佐藤嗣信等の故郷で、その居城の跡は温泉から東に半里ばかりに在る。医王寺といふ寺には、義経弁慶の太刀笈などがあるという。
 それで、此地の商家の多くは佐藤姓を名のると見える。」

 市毛氏がいうように、子規は27日には、25日からずっと体調が優れなかったので、遂に医王寺にも行かないで、人力車で桑折に出発する。
 その通りなのだが、地元を歩いている者として気になるのは、この時の医王寺の位置表示だ。
 実際の大鳥城は、子規のいる飯坂温泉の西にある。そして、医王寺は南にあるはずだ。それを両方とも「東に半里」としているのだ。これは、「奥の細道」が描く大鳥城と医王寺のイメージのままだということだろうと思う。
 これまでの子規を追う限りでは、「奥の細道」のこの辺りの描写にはフィクションを交えている事に気づいているはずだと思っている。細道紀行に描写するイメージを大切したというのかとも思うのだが、本当は芭蕉翁の細道紀行のフィクション性に気付いていないのかもしれないとも思えなくもない微妙なところだ。
 そのことによって、芭蕉翁の細道紀行を極めようとしているのに医王寺に行かなかったことの意味づけが変わるような気がする。
by shingen1948 | 2012-09-21 05:58 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)