地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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久しぶりに鯖湖湯に入る~夏の頃⑦

 客人が置いて行った冊子を見て、鯖湖湯にこだわったことに納得。
 「現代も魅力あふれる「おくの細道」の東北」という特集があり、芭蕉を慕う文人が見た「おくの細道」として、菅江真澄、正岡子規、斎藤茂吉の三人の目を通して「おくの細道」を見つめ直すということでの紹介文がある。その中で、福島辺りは子規の目を通した紹介になっている。その地点の中に、「飯坂温泉」は、(信夫文知摺石」を見た後)子規は、疲れた体を休めるため、芭蕉も浸かった飯坂温泉の湯を楽しむとして、鯖湖湯の写真掲載で紹介されていたのだ。
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  「岩代飯坂温泉 : 十綱の栞(竹内久助 編)< 明35.8>」に「鯖湖湯付近旅館」の写真を見た。 曖昧で良く分からないのだが、位置的にみて、右手の旅館が「和久屋」さんだろうか。左手が「米沢屋」で、あるいはその手前に、「ツナヤ」が写り込んでいるかもしれない。奥に写るのが、菓子屋の看板かなとの想像は大胆すぎるかな?
  「子規の目を通した紹介」で鯖湖湯に入ったということで、これを機会に「和久屋」さん泊想定で、「はて知らずの記」で子規が宿にたどり着く描写を確認し直す。

 文知摺観音で、炎熱に悩まされた子規は、ここで人力車を頼んで飯坂温泉に向かう。この時期、人力車はかなりの数があって、頻繁に行き来していたと思われる。恐らく、それを拾ったのだろうと想像される。
 飯坂に向かう間、炎熱に悩まされた子規は、やや曇りで風が吹いて、今度は肌寒さが襲ってきたという。途中の風景は描写されないのはそのゆとりがなっかったからだろう。ただ、文知摺観音に向かう時に描いた、新道が整備されたばかりで、まだ樹木を植えるというところまでには至っていなかったという風景に変わりはなかったろうと想像できる。
 宿に着くと、その前庭に山吹が今を盛りに咲いていたという。
 山吹のみな月とこそ見えにけれ

 旅館に着いた子規は、早速ひと風呂浴びる。
 当時の旅館は内風呂ではなく、共同湯が普通の風景だ。子規は、湯に入ろうとして、宿を出るのだが、この時に雨が降りだしという。
 浴場は二か所あったが、混雑していてイモ洗い状態だった事については、先に整理した。ただ、この時代、滝の湯が最も新しく賑わっていたはずだが、子規は鯖湖湯と透達湯という浴場が二つ並ぶ共同湯に入ったという事にふれておく。
 夕立や人声こもる温泉の煙

  「飯坂温泉四季之友(長沢広吉 (駿江) 著)<明22.10東潤社>」に「和久屋」さんの広告を見つけた。注目は、福島停車場から飯坂温泉まで、時間馬車が走っていたということか。
a0087378_40643.jpg ただ、「飯坂温泉史」を確認すると、「和久屋」さんの位置には宿はなく、その鯖湖湯側に「枡屋」さん、その東側に「タカノヤ」さんが見える。
 変遷が激しいようだが、掘江屋旅館、中屋旅館といった現在もある旅館名が並ぶ。

 「飯坂温泉史」の時期の湯沢の「枡屋」と滝の湯の「枡屋」とのかかわりは不明だが、ここに表現される湯沢の「枡屋」を抜き出してみる。
 「鯖湖温泉の左側にあり、三階層の旅館にして、他は中村屋旅館に同じ。」
 そこで、同じとされた中村屋旅館は、次のように紹介される。
 「湯沢第一の旅館とす。高楼魏然(※高く大きくて立派な様)、客室の設備、能く浴客の喜ぶ所なり、宿料も至って低廉(ていれん※料金が安いこと)なり。鯖湖温泉には内湯のごとく往復便宜なり。」
「タカノヤ」さんは、次のように紹介される。
 「湯沢にあり、民衆旅館として宿価至って低廉なり、鯖湖温泉に10数間。」

 ここに紹介されていて現在はその姿が見うけない宿を確認すると、透達湯側の中島屋旅館と油屋旅館だ。
 油屋旅館は、「透達湯の正面にあり、他は掘江屋旅館に同じある。」と紹介される。当時の透達湯が、現在の鯖湖湯なので、その西側でその北側に教会があったらしい。
by shingen1948 | 2012-09-20 05:20 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)