大河ドラマ「平清盛」視聴~ 第35話「わが都、福原」
2012年 09月 16日
具体的なイメージが浮かばないと、気分的に納得できなくなっているのだが、その時に位置情報があると、想像を膨らませてその気にさせてくれている。
確認はしていないが、情報として「兵庫県史」ではその平家一門の福原の中心が「湊川の上流、現在の平野から荒田町へかけての高台と、氷室町から夢野あたりの山裾の緩斜面にあった」とあるらしい。更には、これも情報としてだが、「山槐記」の記述から以下の具体的な位置情報が得られるとのことだ。
清盛の邸宅は摂津国平野付近に在り、「左兵衛頼□」すなわち頼盛の邸宅と清盛邸は4~5町(約430~550メートル)離れていたとか。清盛の邸宅から1町(約109メートル)隔たった所に「湯屋」があったとも。
出掛けるゆとりは無いので、「KOBE de 清盛2012」のページとかかわる情報だけで想像を膨らませる。
頼盛の邸宅は、荒田八幡神社(現・兵庫区荒田町)のあたりとされ、その荒田は平野の西南方にあたるとか。<荒田八幡神社(安徳天皇)>
http://kobe-de-kiyomori.jp/historic-site/3_7.php
また、平野から北西方向には「湯ノ口」の小字名があって、これが「湯屋」あたりとの想像があるらしい。<湊川上温泉(清盛湯屋)>
http://kobe-de-kiyomori.jp/historic-site/1_4.php
平成5年の道路拡張計画にともなう祇園遺跡(兵庫区上祇園町周辺)の調査で、福原京関連の遺跡として庭園の池、導水路・排水路、石垣などの園池遺構が検出されたという情報も。
これ等から、清盛の邸宅は、五宮町・上祇園町・上三条町・湊山町付近の想像らしい。<湊山小学校(雪見御所跡)>
http://kobe-de-kiyomori.jp/historic-site/1_3.php
坂の上のサイドボードでは、清盛の意図は日宋貿易にかかわるものだとして、以下のように整理される。素人の勝手な思いとしては、清盛の意図は「京都の政治を遠隔操作」ということに加え、「清盛が後半生をかけた都市「福原」に、清盛の邸宅を中心に、平家一門をはじめとする多くの邸宅が軒を並べていたこと」ということからは、京都を離れた地で、主従の関係を構築するということにもありそうに思う。
保元2年(1157年)に清盛が太宰大弐(太宰府の実質的な長官)に就任して以降は、(日宋貿易に)積極的に関与するようになった。それをさらに大規模に推し進めるために、清盛は福原の外港である大輪田の泊を修築し、ここに宋船を迎え入れようと考えたのである。
『愚管抄』に「平相国ハ世ノ事シオホセタリト思ヒテ出家シテ、摂津国ノ福原ト云所ニ常ニハアリケル」とあるとおり、これ以後、清盛は福原を本拠として日宋貿易に注力しながら、京都の政治を遠隔操作していくことになる。