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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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半田銀山散歩の続き④~半田発電所

a0087378_3404633.jpg 半田発電所跡の位置をいろいろ推理したが、その位置情報は、資料としては明治43年の半田沼抜けの二つの被害図から得ている。大きくカーブする内側に設置されたらしい事は略図から読みとれたので、この大きくカーブする地点を散歩で確認すると、現況では先の林道から湧水川水路に突き当たる付近から遊水池付近までらしいことを確認した。
 そこから発電所の位置を絞り込む確実性の根拠は弱いのだが、付近を散歩しての直感で今のところ遊水池に向かう道筋が、その半田発電所への道筋に近いのではないかと想像している。
 これは、その遊水池に入水する付近から水路を挟んだあたり。

 明治43年の半田沼抜けの被害図には半田発電所が記されるが、実際には明治35.6年頃には発電所は機能しなくなるという事のようだ。資料によっては、半田発電所廃止は明治34年とするものもみるが、どの説もその理由は半田山崩壊。
 この半田山崩壊は、明治30年代から5.6年間に亘って大規模な半田山崩壊地滑りが発生するのだが、これが先の安田氏の研究領域になっているところのようだ。

 「近代遺跡報告書―鉱山―(文化庁文化財部記念物課)」によって、半田発電所の経緯を確認する。
 発電所計画は、明治20年からの坑内設備の積極的合理化の一つだったということのようだ。
 具体的には、鉱石運搬のための堅坑巻上機、軌道運搬の強化という合理化ということだったようだ。これによって、再光鋪では軌道馬車運搬が、排水作業の合理化も再光水抜き坑の話ということで、ここは再光地域の散歩と重なっている。

 この合理化策の一環として明治26年に水力発電を設けられるのだが、これによって再光水抜き坑では、電動式の三聠プランジャーポンプ2台を設置して、ポンプ排水に大成功し、(膨大な人力を要した排水作業が)僅か14時間程で排除できるようになったということだ。
 ※ この資料では、「従来の労力=一昼夜囚人130人」とみえるが、別資料で一昼夜労働者120人というのもみる。この資料では「14時間程で排除」とする水量を、7klとする資料もみる。

 ところが、これが(明治)35.36年の地滑りでこの発電所送水管が破裂、また、発電所とその地盤が傾き発電不能となってしまったという。このことから、必然的に(明治)35.36年以降再光抗以下の排水ができなくなり、採鉱は再光鋪以上と二階平坑に限定されるようになるという経営悪化につながる要因になったということのようだ。

 なお、資料では「この水力発電所設置は、県内嚆矢(※こうし=物事のはじまり)とされ、また坑内機械への電力応用は当時では斬新な考えであった」とある。
 これが、先に記したこの発電所が、明治28年に菅原道明が創設した、全国2番目の発電所とされる福島電燈会社の庭坂発電所ともかかわるということとつながる。
 菅原道明氏は、明治26年頃に事業を行うにあたって、半田銀山経営者五代龍作に発電所見学を頼み、その水力算定の方法の基礎を教えてもらったということだった。
by shingen1948 | 2012-08-21 05:20 | 半田銀山 | Comments(0)