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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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半田銀山散歩の続き③~半田発電所跡付近の水路

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 先に半田沼からつながる水路の遊水池上部を確かめている頃までは、この水路を亀張水路と呼んでいた。それは、管理小屋に掲げられた掲示物を参考にしたのだが、これは水路を整備する技法にかかわる呼称である事は分かっていた。
 大概の地図では、その水路を普蔵川につなげ、史跡銀山跡に向かう川筋は省略されている事が多い。それで、この川は普蔵川なのだろうと思っていたところがある。

 ところが、半田銀山の資料を確認していくと、「湧水川」と呼称される川がこの水路らしいことが分かった時点から「湧水川」と呼ぶ事にした。
 この水路は、元来「湧水川」であって、普蔵川はその支流かもしれないと思える情報は、安田氏「明治20~30年代(台?)における半田山地変(半田山の塊体移動)について」のまとめにみつけた。
 ここには、新半田沼については「明治期の半田山地滑りで発生した最大の段違いの崖は、南半田字湧水地内西部に出現したが、……」「この最大規模の段違いの崖の下方に、半田新沼を含む大きな凹陥地を形成した。」とある。
 現況では、大きな半田沼があって、そこから湧水川が流れ出るというイメージだが、明治33年頃の半田沼は、南半田字湧水地内の小さな新沼という状態で、湧水川筋の大水溜まりのイメージだったらしいということだ。
 このことから、「湧水川」に視点を置いて読みなおせば、川の始まりの地点が、南半田字湧水地内ということのようだ。ここは、明治初年頃は大部分が草山状態で、一部に個人持ちの畑地が多数点在していたという状況だったらしい。
 明治23年頃に、この桑畑の中に水溜まりができて、翌年には付近一帯に亀裂が生じて、この水溜まりも大きくなったという。それで、村民は水路をつけて湧水川に水を引いて、下流の灌漑用に利用したとことだ。(桑折町史3)

 明治33年頃には、新たに湛水し始めた湧水川筋の水溜りが大きくなって、3年後には先の桑畑の中に水溜まりと合併したという。研究のまとめでは、湧水川の流水は、下流で銀山発電所に利用されていたので、この大水溜まりは「湧水川に沿ぐ池」であったはずだとも。
 なお、安田氏は上記のような地滑りの経緯の中で新半田沼は形成されたので、「町史で明治38年の半田山崩壊で半田沼が造られた様にあるが、(そうではなく、)それまでの地滑りで作られたと解すべき」で、正確には、「明治38年には字湧水の新池が大きな沼になってしまったとするのが事実だろう」との指摘もしている。

 半田発電所とのかかわりは少ししか記されないが、この「明治20~30年代(台?)における半田山地変(半田山の塊体移動)について」によって、その水路が崩壊して半田発電所が休止するということらしい。
by shingen1948 | 2012-08-20 05:20 | 半田銀山 | Comments(0)