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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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銀山字戸沢町を通る道筋~半田銀山散歩の続き

 近代遺跡としての半田銀山と半田地区の散歩のかかわりが、少しだけだが見えてきたように思えてきている。
 ポイントとしては、史跡半田銀山跡の案内柱が建つ事務所や精錬所跡、水抜坑口や再光抗(本坑)より搬出されたズリ捨山と搬出路が旧羽州街道と立体交差する女郎橋の石垣を中心とした再光地区の施設、中鋪・二階平坑口だろうか。
 ラインとしてみれば、三面が石積みで護岸された湧水川流水路と、その湧水川ライン上に、鉱山の近代設備化を促した水力発電所跡、そして、本坑の選鉱場より桑折駅まで鉱石を運んだ軌道敷跡といったところだろうか。

 しかし、半田銀山は、こういったイメージしやすい銀山施設とのかかわりでは、なかなか経営を軌道に乗せることはできなかったようだ。それよりも、この銀山の繁栄には廃鉱の発見が大きかったということのようだ。
 具体的には、明治13年の字戸沢町の廃鉱、明治19年3月の伊達郡上保原村の廃鉱の発見ということらしい。
a0087378_5432848.jpg
 これは、銀山地区の水道組合記念碑だ。
 この右手の道筋を進むと、この先の高まりを右側から回り込むようだが、その先が字戸沢町という位置関係になるようだ。この道筋は、二階平坑口へつながっている。

 その廃鉱の発見について、沿革史には以下のように記されるようだ。
 明治13年に至り偶々銀山字戸沢町に一種の土砂あるを発見し、試しに是を分析せしに千分中6より、万分中8の銀を含せり、是れ乃ち廃鉱砂なるものにして昔時盛んに採鉱製錬せしも其の方法今日の如く精しからす、此の廃鉱の如きは所謂荷粉流(ねこながし)の末流漸次谷沢に充塞し、歳月を経るに随て水分蒸発し、遂に堆積して一種の土層を為し或いは丘となり、或いは林となりて今日に及び、其の厚さ78尺より10尺以上に至り、浅きも2尺より45寸に至る、而て前後6度に借区したる総面積壱万3623坪5合勺と為す、又明治19年3月伊達郡上保原村に於いて廃鉱を発見し、之を両度に借区したるもの7415坪6合にして、此の両処を合算すれば無慮2万千坪余りの多きに及べり、而て発見以来明治20年6月まで採収したる廃鉱の高は殆ど2千万貫目にして是より製出したる純金銀4万5千○百5貫目余に至れり。

 ここで、廃鉱の状態は、「所謂荷粉流(ねこながし)の末流漸次谷沢に充塞し、歳月を経るに随て水分蒸発し、遂に堆積して一種の土層を為し或いは丘となり、或いは林となりて今日に及び、其の厚さ78尺より10尺以上に至り、浅きも2尺より45寸に至る、而て前後6度に借区したる総面積壱万3623坪5合勺と為す」と記される。
 「石見銀山遺跡ニュース」に、半田銀山の鉱床について以下の特徴が記されるのを見たが、廃鉱の状態とかかわりそうな気がした。
 半田銀山の鉱床は、方解石と苦石灰を伴う含金銀石英脈ですが、母岩も含め、非常に脆弱な鉱床であることがわかりました。半田銀山の選鉱の特徴として、「大流し」、「長流し」「ねこ流し」と、水洗選鉱の回数が多い点が挙げられますが、その理由として、ここの鉱石が水洗いすることで簡単に砂粒化する、細かく砕けやすい石英脈であったことから、それによって金の選別を容易にすることができたためと推定されました。

 郡役所には、半田銀山の鉱床も展示されていたのを思い出した。なお、「明治19年3月伊達郡上保原村に於いて廃鉱を発見し」ということにかかわる散策情報を今のところ持ち合わせていない
by shingen1948 | 2012-08-18 05:38 | 半田銀山 | Comments(0)