大河ドラマ「平清盛」視聴~第31話「伊豆の流人」
2012年 08月 16日
オリンピックも出来事の一つとしか感じない者にとっては、今回が正常な時間帯での放映という違和感がある。前回が別時間帯で予告と違う異常な時間帯に放映され、次回が中止という変則の中に挟まれた今回だけは、正常な時間帯というリズム変化の違和感だ。
さて、今回は、清盛が、後白河上皇と両派の対立の中を、二条天皇にとりいりつつ、後白河上皇にも蓮華王院(三十三間堂)を献上するなど、慎重にあたなたこなたして、政治的地位を武士では初の大納言と向上させる。ドラマでは、清盛の政治力の一つとして、日宋貿易を意図して、その実現に向けた港湾の整備、瀬戸内海の開削などに乗り出そうとする清盛を描く。
しかし、清盛の政治力の限界を視点とする元木氏は、清盛が直接政務に介入して動かすことはなかったとみるようだ。その視点で、保元・平治の乱を通して大きな意味は、何かということだが、元木氏は、荘園管理の爪牙(そうが)となってきた軍事貴族たち(京武者)が、ほぼ全滅したことだとみるようだ。
清盛は、院制期に京の治安警察活動をにない、地方の反乱や紛争を鎮圧したわけだが、結果として、地方反乱の鎮圧、京の治安維持、荘園の管理が、清盛統率化の平家一門が一手に引き受ける事になったとみる。
元木氏は、この武力的な独占にも限界をみる。
清盛の直属武力は、伊勢伊賀の本領を中心に海賊討伐等で得た限られた地方武士にすぎないとする。ということは、大規模な反乱に対応するには、朝廷の命令で、国衙(こくが)などに組織された地方武士の動員を余儀なくされるということだ。
要は、本領を中心とした武力に依存して、ごく限られた地方武士とのみ結合した院制期の軍事貴族(京武者)の在り方を肥大化させたに過ぎないという見方のようだ。
競合する武家棟梁が存在しなくなった事で、独自の武力を拡大しなくても、国家的な軍事警察件を掌握した以上、院・天皇の命令を利用することで、地方武士を容易に動員ができたということだ。
このことは、王家と結合し依存する平氏の在り方が規定されるという限界でもあるという見方のようだ。
これに対して、広範な東国武士を組織しようとした義朝は、武力の組織形態としては斬新だったとみる。「伊豆の流人」は、1159年に清盛によって伊豆・蛭ケ小島に流罪となったその子であり、ドラマの語り手でもある頼朝だ。ドラマでは、その5年後の18歳に成長した源義朝の子・頼朝が、家人の藤九郎とともに暮らしていた様子から描きはじめる。
例によって、第31話「伊豆の流人」 の要点を「エキサイトドラマ特集『大河ドラマ平清盛』」からお借りする。http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga51/story_31.html
「伊豆の流人」
1164年、伊豆・蛭ケ小島。そこに18歳に成長した源義朝の子・頼朝(岡田将生)がいた。5年前、清盛(松山ケンイチ)の沙汰で流罪となった頼朝はここに流され、家人の藤九郎(塚本高史)とともに暮らしていた。一方、清盛は、後白河上皇(松田翔太)と対立する二条帝(冨浦智嗣)の親政のもと、朝廷での力をのばし、港湾の整備、瀬戸内海の開削などに乗り出そうとしていた。清盛は二条にもとりいりつつ、後白河上皇にも蓮華王院を献上するなど、朝廷内でうまくたちまわっていた。長男・重盛(窪田正孝)はそんな父のやりかたに納得がいかず、二条帝に後白河のために建立した蓮華王院へ参詣(さんけい)するよう進言し、清盛の怒りをかう。そんな中、突然の病の床についた二条帝は、わが子、順仁(六条帝)に譲位し、憲仁を抱える後白河上皇の院政の阻止をはかるが、ついに崩御する。2歳の六条帝の擁立によって、再び朝廷内のパワーバランスが変わりはじめていた…。