地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「再光鋪」②~半田散歩から31

 女郎橋の言い伝えは、ここが銀山の端というイメージがあって成り立つように思う。他所から来た者には、なかなかそのイメージが持てない。
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 散歩を通して、バイパスから銀山公園に入る道筋は、湧水川沿いの道筋であることが分かり、この道筋を西に辿れば、再光水抜口や銀山関係施設に向かう道筋であることが分かる。そのことと「再光鋪」は位置的には本坑の東端に相当するということを知ることを通して、やっとここが「銀山にかかわる端っこ」というイメージが持てたような気分になれたように思う。

 この再光鋪の取明けが決定するのは、ここが幕藩時代の最低水抜き坑だったかららしい。
 五代の半田銀山事業のうち、旧鉱の取開けでは、絶えず湧水に悩まされ続け、この解消が急務だったということらしい。
 このことにかかわる合理化事業情報で、明治26年水力発電所を設け、電動式の3聠式プランジャーポンプ2台設置というのがある。そこで気になっていたのが、「これで、従来一昼夜130人の囚人で排除した湧水が、14時間で排除できるようになった」とあったこと。
 明治24年12月囚人使役につき福島監獄との契約書の表現を確認すれば、「約業は疏水、運搬(坑内)の二種とし、其就役時間は、一昼夜を三分して各8時間とす。」とある。この情報を重ねると、一昼夜を三交代の囚人労働の主たる仕事の一つは、この排水の仕事だったのではないかと想像できる。

 その人力による湧水を排除する仕事ぶりがイメージできなかったのだが、「半田銀山(庄司吉之助)」に、そのことにかかわる資料を見つけた。
 「銀山工夫・山師の一揆」という資料だ。その「無宿水替の逃亡」の項に仕事の概要が載っている。半田銀山の例ではないが、似たような仕事だったろうと想像する。
 〇 「隔日1昼夜勤務で、堀跡の大きな空洞へかけ渡した1本の木の上に立って,絶えず釣瓶で水を汲み上げるような作業である。」
 〇 「水替えの持ちそうろう水汲み桶を鉄樋という鉄にて輪をかけそうろう桶なり、切り場の脇え、受け船とて四角なる箱居並ぶ、この鉄桶にて水汲み込めそうらへば、また外の水替請船より汲み上げ外の舟へ汲み替え、この如く順に水流し捨てそうろう所まで幾つも居へ並べ見ず汲み送りそうろう、これを手繰りという。水流捨てそうろうても滞らず平地の所を水廊下という。この水廊下まで汲み送りそうろうに手繰りに成らず、下より上え揚げそうろう所は井車を仕掛け段々と汲み上げそうろう、右廊下まで揚納めの所を引捨てという」「場所により、受船居並びがたき所は、木を横に渡し、壁のごとくネバ土にて塗り、あるいは板にて張り水の漏らざる様に致し、水を汲み溜めそうろうをにがいという。受船据え置きそうろう即ち船屋敷という」
 〇 「釣瓶の水は約5升の容量であるという。」

 「隔日1昼夜勤務で」とあるところが、半田銀山では、「一昼夜130人の囚人が、一昼夜を三分して各8時間勤務で」と読み替えればいいのかな。
by shingen1948 | 2012-08-09 05:20 | 半田銀山 | Comments(0)