「坑口 再光口」② ~ 半田散歩から29
2012年 08月 07日
ここに半田銀山の資料が展示されているのは、昭和59年に奥州半田銀山展が開催されたとのことで、その名残らしい。この時に資料収集や調査研究が行われたらしい。その資料がここに保管展示されているということだ。
記憶では、入り口付近に五代氏の業績紹介があって、各作業の道具や鉱石が展示されていたように思う。更に、中鋪と二階平坑坑道調査の写真掲示などが記憶にある。
ここに来れば、何時でも確かめられると思っていたのが甘かったようだ。
さて、再光口だが、歩いてみた感じを明治43年の災害略図に重ねてみる。
まず、湧水川だが、水路を辿ってみると、現在は民家の敷地になっている選鉱場を一周する感じで描かれていたことに気づく。水抜坑口からの排水を回収し、選鉱の洗鉱にも活用するということだったのだろうか。
次に、坑口だが、明治30年から5~6年間にわたって大規模な半田山崩壊地滑りが発生するが、この時に坑内には影響が無かったようだが、坑口に変化があったという。
第一坑口というから中鋪坑口だろうか、これがこの時に埋没したという情報がある。更に、第三坑坑口というから再光口だろうか、これがこの時に20間余り北に移動し、坑口は埋没したとの情報も。
図にある坑口が、ここでいう北に移動した坑口なのか、埋没した坑口なのかは不明だが、歩いてみた感じでは、埋没した坑口ではないかと勝手な想像をする。
この時の半田山崩壊地滑りで、発電所送水管が破裂、発電所もまた地盤が傾き、発電不能になったという。 これで、再光以下の排水も断念することになったという。したがって、これ以降の採鉱は、再光鋪以上と二階平坑に限られたということだ。
当然産銀は落ち、これに明治35から36年の銀貨下落もあって半田銀山は経営悪化となり、明治37年には弘成館経営から、田中・五代・堀各氏の共同経営に変わったという。
なお、この明治30年代の半田山崩壊地滑り状況については、安田氏の報告が詳しい。
そして、この図の元になる明治43年の半田沼抜けとなる。
この時に弘成館建物は事務所も含めて被害を受け、再光坑口の建物にもその被害が及んだようだ。この時に、宝暦頃に出来上がったとする買石町の辺りも、大門先・十分一等地名は残るが、すっかり土石に埋まったという。
結局、この水害後にも残った施設は、直ぐに修復されたという弘成館事務所と機械工作場、営繕木工場と、それに明治38年にはじめられた青化製錬場だったとか。
ただ、その後の主役となる再光坑口の事務所と選鉱場は、修理存続されたという状況だったらしい。図に記したその選鉱場の位置情報は、「街道web」による。