人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

大河ドラマ「平清盛」視聴~第30話「平家納経」②

 第31話が通常通りに放映されて戸惑っているが、第30話の整理を続ける。

 崇徳院の怨霊は最近まで生き続けていたとのことだ。
 半田銀山散策の明治天皇幸行を整理したところだが、その明治天皇は、王政復古の時を迎えた慶応4年(1868年)8月には、勅使を讃岐に遣わし、崇徳院の御霊を京都へ帰還させて白峯神社を造営したとのことだ。「京都聖地案内」では、この時に道鏡によって帝位を奪われた淳仁天皇の霊もこの白峯神社に合祀されたという。
 「坂の上のサイドボード」によれば、以下のように崇徳院の怨霊は昭和の代まで生き続けているという。
 崇徳天皇800年祭に当たる昭和39年(1964年)には、昭和天皇(第124代天皇)の意向によって香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、式年祭を執り行わせている。まさしくその予言どおり、崇徳院は日本史の中で800年近くもの間「日本国の大魔縁」であり続けた。その生前、天皇・上皇という立場にありながら一度として実権を持てなかった崇徳院だったが、死後、日本史の中に強烈な存在感を残した。
 ドラマでは、配流先の讃岐で、後白河院にわびようと写経をしたためるまでののどかに暮らす崇徳院を描く。また、最後も、穏やかな表情で逝く崇徳院を表現する。これらは、坂出の崇徳院のイメージに配慮されたものだろうか。

 ドラマでは、「平家納経」と崇徳院が崩御を絡ませて描く。「高松放送局サイト」によれば、清盛や西行たちと崇徳院の世界観が、対比して描かれ、「2つの物語」が同時に進行していく回との事だ。
 ただ、これらの出来事としては同じ時期のようなのだが、「京都聖地案内」によれば、崇徳院の怨霊が生まれるのは後の時代との事なので、歴史的には別事ととらえることではないかとも思う。
 更には、ドラマでは西行を清盛近くで描くが、西行を主体に描く物語では崇徳院近くで描かれる事が多いようだ。
 能の「松山天狗」は、その典拠を西行の説話集「撰集抄」の「讃州白峯之事」とされるようだが、こちらは、世の無情さを語る事に重きを置いていて、崇徳院の怨霊は出現していないという。そちらは確認していないが、「西行家伝」を拾い読みして確認すると、こちらも崇徳院との心の交流に重点を置いているようだ。

 例によって、第30話「平家納経」の要点を「エキサイトドラマ特集『大河ドラマ平清盛』」からお借りする。
 「平家納経」 
 1161年、崇徳(井浦新)は配流先の讃岐にいた。今はのどかに暮らす崇徳だったが、弟の後白河院にわびようと写経をしたためる。後白河は滋子との子、憲仁親王をもうけていた。時忠は平氏の血の流れる憲仁を東宮にしようと画策するが、二条帝に知れ、清盛によって解官させられてしまう。崇徳の送った写経は、破られて戻ってきた……そして子・重仁の突然の死に、崇徳はついに恨みの頂点に達する。西行(藤木直人)によって崇徳の怨霊話を聞いた清盛は、一門で経典を厳島神社に納め、一門の繁栄を祈願することを思いつく。

by shingen1948 | 2012-08-06 04:41 | Comments(0)