「坑口 再光口」 ~ 半田散歩から27
2012年 08月 04日
半田銀山の坑道は、南側から本坑、中鋪坑や二階平坑の3つの区があるそうだ。このうち、中鋪坑や二階平坑の坑口が確認できるのだが、本坑にかかわる坑口が確認できない。
五代氏の工事再開は、埋没している旧鉱の取り開けだったという。
まず、明治8年2月に、第一坑(中鋪)と二階平坑に着脈したという。次に、同年10月には、第二坑(新盤坑)に着脈し、そして、明治11年12月には第三坑(新水抜)に着脈するという経緯のようだ。
これが、当初の旧鉱の取り開け計画のようだ。このうちの第二坑(新盤坑)と第三坑(新水抜)とがこの本坑にかかわる坑道だと思う。明治天皇行幸で御覧になった坑口・坑内を第二坑(新盤坑)と想像したのは、この経緯と位置関係からだ。
ところが、これら旧鉱の取り開けでは、絶えず湧水に悩まされ続けたとか。
明治12年になっても産出鉱は、坑内残鉱の搬出に留まって、下部の開発探査は手つかずの状態だったらしい。そういう事情から、幕藩時代の最低水抜き坑である再光鋪の取り明けを決定したらしい。この坑では、明治12年9月取明けに着手して、明治16年1月に着脈するという経緯のようだが、これが近代唯一の良鉱である亀若脈だったということらしい。半田銀山は、明治17年には、今までの最高産銀の2倍を産銀したということだが、この亀若脈もその一役を担ったらしい。
これは、散歩での「坑口 再光口」の確認状況だが、今のところ曖昧な事が多い。
「坑口 再光口」の散歩で確認したいのは、以下の3つだ。
① 本坑口であるということ。
② 最初に計画した旧鉱の取り明けの行き詰まり原因である湧水の水抜き解消坑口であること。
③ 更には、その延長線上にたどりついたという近世では唯一良鉱脈にかかわること。
情報としては、明治20年の合理化策として、鉱石運搬のための堅坑巻上機、軌道運搬の強化策がとられ、もっとも遠丁のこの再光鋪では軌道馬車運搬に変わったとされる。②とのかかわりでは、明治26年水力発電所を設け、電動式の3聠式プランジャーポンプ2台設置。これによって、従来一昼夜130人の囚人で排除した湧水が、14時間で排除できるようになったという。
廃鉱枯渇後、明治30年初めまで平均産銀400貫余が確保できたのは、この亀若鉱とこれら改善努力の結果だと言われているらしいが、散歩とつながりそうなのは、「水力発電所」の情報と「囚人労働」の情報とつながる②の実感だろうか。