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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「史跡 半田銀山跡」 ~ 半田散歩から27

 明治20年頃の弘成館の事務所跡と選鉱・洗鉱にかかわる半田銀山建物群跡付近の絵葉書の写真を見てびっくりしたのは、この写真と自分がイメージして撮った写真を比べたら、山の稜線が重なった事だ。
a0087378_4501552.jpg
 先に掲げた写真を、絵葉書の稜線に合わせて少し余分に写っていた部分をカットしてみると、こんな感じた。
 左手前の高まりが、廃鉱らしいことも想像できる。
 
 右手民家付近が弘成館の事務所跡付近らしい。正面、民家やや右手付近に半田銀山建物群跡を象徴するような煙突が建っていたらしいということだ。
 ここは、「明治天皇幸行記念碑旧地?」として整理したところだが、ちょっと自信がなかった。
a0087378_5173648.jpg
 ところが、半田銀山の調査報告書の「遺跡の価値および評価」に、「半田銀山鉱場跡」が、「半田銀山最盛期から青化製錬時期までの銀山鉱場跡を推定できる」という評価があったことと、そこに「弘成館鉱場跡(現況)」という写真が掲げられた写真を見たことだ。その写真は、南側も含めた広い範囲を映し出していたが、位置的に間違いないという少し自信をもったということだ。自分も、権威には弱そうだな。

 ここには、「史跡 半田銀山跡」の古い標柱が建てられている。これも、半田銀山の経緯を確認すると納得だ。
 半田銀山は、明治15・16・17年と産銀日本一になるらしいのだが、これは旧鉱取明けの成功によるものではないらしい。その主因は、明治13年に字戸沢町で膨大な量の銀品位良質の廃鉱砂の発見によるものらしいのだ。
 字戸沢町を地図で確認すると、今回散歩した銀山地域から西に見える高まりを北から回り込んだ付近のようだ。ここに膨大な量の銀品位良質の廃鉱砂が捨てられていたということらしい。
 ここから銀を取り出すのに、一般的に必要とされる経費のほとんどいらないという状態だったということだ。
採掘や坑内運搬の手間も費用が要らないのは当然として、粉砕して選鉱する必要もなかったということらしい。ただ、これを精製するだけの状態だったということらしい。
 各資料で、明治17年が半田銀山の最盛期といわれる主たる要因がこの事情らしい。ここに、再光鋪近代唯一の良鉱である亀若脈に着脈したという事情が重なったということらしい。

 「史跡 銀山跡」という言葉からぱっとイメージするのは坑道だろうか。確かに、半田銀山でも鉱山の再開は、埋没している旧鉱の取り開けから始まったようだ。だが、半田銀山の経営が軌道に乗るのは、新しい鉱脈に着脈したということではなさそうだ。
 ということで、「史跡 半田銀山跡」は、弘成館の事務所跡と選鉱・洗鉱にかかわる半田銀山建物群跡付近の風景というのも、それはそれでよさそうだと思ったというたわいもない事。
by shingen1948 | 2012-08-03 05:20 | 半田銀山 | Comments(0)