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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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半田銀山の囚人労働者エピソード情報~半田散歩から25

a0087378_3353833.jpg 「半田銀山全図」の絵図にある外役場という建物が気になっていたところだ。この建物は、塀に囲まれているのだが、これが囚人労働とかかわる建物と推測する。歴春ふくしま文庫「ふくしまの鉱山(佐藤一男著)」に、そのことにかかわるエピソードが載っていた。これを拾い読みしてみる。

 この本では、会津の鉱山を中心に紹介されている。半田銀山のこの「外役場」が、直接紹介されているのではなく、会津の自由民権運動弾圧のエピソードとのかかわりの中で登場するということだ。
 その自由民権家が、宇田成一氏という方だが、この方が半田銀山に送られてくるということだ。
 この方は、喜多方に愛身社を結社するなど自由民権運動の中心的存在として活躍した方という。この方が、会津三方道路不正訴訟にかかわって、欠席裁判で重禁固3ケ月と罰金5円の判決を受け、その後、まもなく逮捕される。
 その宇田氏は、明治19年(1886)3月に福島監獄に収容されるのだが、その福島監獄の典獄が、会津では、自由民権運動弾圧側の方として有名な辰田宗次という方だったとか。 
 それで、この辰田宗次の個人的な腹いせで、ある日、突然に伊達郡半田村にある半田銀山の囚人獄舎に移されたというのだ。

 明治19年(1886)といえば、「半田銀山全図」の絵図はこの頃利の様子という事だったはず。このエピソードの中から、その頃の半田銀山の囚人労働者にかかわる部分を抜き出してみる。
 ○ この鉱山は古くから操業され、佐渡金山のように囚人労働者が多く稼働していた。
 ○ 半田銀山の囚人労働は、刑期を半ば経過した成績の良い者に限られ、6ケ月以上、または1年以上の刑期を残す者という監獄則施行法だったという。

 さて、宇田氏のここでの様子だが、次のように紹介される。
 半田銀山の囚人頭笹野某は、義侠心の強い人である。個人的な恨みを坑内に入れるとは言語道断、治獄の法は罪悪を改めることに目的がある。しかも、服役は体質の強弱によって体刑を決めるのが理であり、宇田のように体質も弱く復讐のための就労は納得できない。こんなことが許されるなら、他日迫害の方法として一般の囚人にも及ぶ事になる。われら囚人一同は、宇田の代わりに働き、断じて宇田を就労させないとして最後までかばい、とうとう一日も坑内労働をさせずに出獄させたのである。
 やがてこの半田銀山は坑内出水のために縮小され、一部の囚人たちは古河市兵衛の要請で会津柳津町の軽井沢銀山に移送されたが、……
 このエピソードの出典は紹介されていないが、地元資料からマイナスイメージの話はなかなか拾えない。
 半田銀山坑夫の墓所の話もマイナスイメージの話ではあるが、地元の方が世話をしているというほのぼのとしたものも感じる。それに比べて、囚人労働者の話はマイナスイメージが強い話だと思う。
by shingen1948 | 2012-07-27 05:20 | 半田銀山 | Comments(0)