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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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明治天皇行幸記念碑の旧地?⑥~半田散歩から⑱

 近世の銀山関係の遺構について、 「桑折町史」<2>では、以下のように紹介している。
 (近世の銀山関係の遺構としては、) 新中鋪の坑口・坑道、三面が石積みで護岸された湧水川流水路、弘成館跡、再光抗(本坑)より搬出されたズリ捨山と搬出路が旧羽州街道と立体交差する女郎橋の石垣、本坑の選鉱場より桑折駅まで鉱石を運んだ軌道敷跡、鉱山機械類の原動力となった湧水川の水力発電所跡などがある。また、半田山東麓の柳沢鉱山(国見町)は大正5年(1916)に開かれている。
 上記の弘成館跡に相当する場所が、今回「明治天皇行幸記念碑の旧地」として訪ねているところだと思う。
 遺跡として残っているものは何もなく、「半田銀山全図」と「半田銀山附近略図」をもとに想像しているに過ぎない。なお、半田銀山が最も賑わうのが明治17年で、「半田銀山全図」は明治19年頃の様子らしい。「半田銀山附近略図」は、「伊達郡半田銀山郷土誌」付図らしい。これが、明治41年とのことで、時期は少しずれる。
a0087378_3474048.jpg
 とりあえず、「半田銀山附近略図」と現況をもとに、「銀山附属建物」と「鉱澤置き場」の位置を想像すると、こんな感じだろうか。
 その湧水川(亀張水路としてきた川筋を、各資料では湧水川とよんでいるらしい)と道筋に挟まれた「銀山附属建物」を弘成館事務所と想像する。その西側の建物群を、選鉱・洗鉱にかかわる工場群と想像する。
 その想像に、「明治天皇行幸」の様子の想像を重ねる。大阪商工会議所蔵五代友厚関係文書をもとにその様子を紹介する「半田銀山の歴史」と「木戸日記」を重ねると、「明治天皇行幸」の様子はこんな感じだろうか。

 21日の天候は晴。
 一行は、半田銀山に入るため午前7時に福島を御発車。
 途中、瀬上、桑折で御小休して、銀山には、所員一同が益子神社前で奉迎する中、午前10時30分に到着。銀鉱詰所で御小休して、御昼食の後に、銀山の鉱山・廃銀鉱物・坑口・坑内・諸機械・洗鉱・選鉱等々8カ所で、坑業の様子をご覧になったとか。
 右大臣岩倉具視が従い、山吉盛典が共奉し、吉田市十郎が説明したとのこと。
 そして、1時50分に銀山を御発車し、午後4時50分には福島駅に戻られた。

 この銀鉱詰所というのが、弘成館事務所なのだろうと想像する。ここで、坑口・坑内も御覧になっているということなので、「半田銀山坑口・坑道位置図」でその位置を確認すると、「半田発電所」の案内柱のあった南側の山際に二つの水抜き抗があって、その間を登ったところに坑口がある。「半田銀山全図」と見比べて、半田銀山坑夫の墓所(無縁仏)を案内する道筋が、ここに向かう道筋なのではないかと勝手な想像をする。
a0087378_452594.jpg これは、地図にある事務所群の実感を意識して歩いた道筋の一部だが、勝手に想像した道筋はこの写真の右手の道筋を先に進んで更に西に向かう道筋。
 なお、この近くでは北側に十分一坑口というのもあるようで、そちらかもしれないとも思う。
 また、亀張水路としてきた川筋を各資料では湧水川とよんでいるらしいが、銀山を意識すれば、水抜きとかかわるということなのかもしれない。更には、製錬ともかかわるとも。
by shingen1948 | 2012-07-23 05:20 | 半田銀山 | Comments(0)