地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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明治天皇行幸記念碑の旧地?③~半田散歩から⑯

 半田公園に出かけた時の写真を眺めていたら、掲示物として掲げられていた明治43年新沼決壊の「被害地略図」の写真があった。
 この図は、今まで益子神社に掲示された図を見ていた。同じ図だがカラーだなという程度の思いで眺めていたのだが、あれっと思った。今まで読み取っていなかった情報に気がついたのだ。

 この図では、一軒一軒の家屋被害詳細をも表していたのだ。黒く染められた建物は流出又は埋没家屋で、白抜きの建物は被害のなかった家屋ということだ。それだけではなく、斜線が引かれている家屋の表現があるのだが、これが銀山関連施設というのだ。
 見逃していたのではなく、状態がよくないために詳細までは読みとれなかったのだ。
a0087378_496100.jpg
 その斜線が引かれている銀山関連施設に着目して眺めてみると、もうちょっと想像が広がりそうだ。
 図を掲げるのに、横にして北を上にしないと地図と見比べられないのは、方向音痴だからだ。

 この図の大門先の道沿いの密集した建物群の西端近くの二棟の流出又は埋没家屋は、地形的に見て流出した家屋かなと想像するのはいいとして、その近くの銀山関連施設が、昨日整理した精錬場とやらではないかなと想像する。
 その南側を走る道筋が水路沿いの道筋だと思うが、その南側にも銀山関連施設建物がある。その西側にも数棟の銀山関連施設群があるのが気になるところだ。
 この精錬場に明治天皇行幸記念碑があったことを頭において図を眺めると、定かではないが、「明治天皇行幸記念碑」は、当初、買石町の銀山本部事務所に在ったものを移設した」と表現される「買石町の銀山本部事務所」とかかわるような気がする。
 弘成館の旧鉱山事務所関係の建物群という想像だが、どうだろうか。
a0087378_4245227.jpg
 先に整理した「銀山」地区付近の散歩は施設の北西方向だが、散歩で確認したその位置を示していなかった。とりあえず、それを地図にプロットする。
 明治43年新沼決壊の「被害地略図」を確認すると、こちらには銀山関連施設はプロットされていない。
 ということは、「明治9年6月21日 明治天皇は奥羽御巡幸にあたり右大臣岩倉具視、参議大久保利通、内閣顧問木戸孝充外を随伴し半田銀山に御臨幸され鉱山施設をつぶさにご覧になられた」施設群は、図に示された施設あたりなのではないかとの想像にもつながるのだが、どうだろう。
 更には、よく見かける半田銀山全図の銀山関連施設群に描かれる水路は、勝手に普蔵川と思っているが、この二つに分かれた亀張水路の方かも、……。

 他の銀山関連施を眺めると、「水抜」とされる付近にも関連施設がプロットされる。回りくどい言い方は、現況で「水抜」とされる地区は、北半田の字のようだからだ。
 再光地区の田圃の北側の道沿いにも、3棟の銀山関連施設がある。これが、南半田字女郎橋地内の鉱山軌道の整理と関連ある施設ではないかなと思うがどうだろうか。

 現況ではこれらの痕跡は見かけないが、情報によると昭和20年代頃までは、建物や煙突などが残っていたとか。地元の方々にとっては、原風景として記憶された風景なのだろうなと思う。
by shingen1948 | 2012-07-18 05:20 | 半田銀山 | Comments(0)