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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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明治天皇行幸記念碑の旧地?②~半田散歩から⑯

 明治天皇行幸記念碑それ自体の立派さに興味はないし、その碑自体の歴史的価値も感じていない。その「明治天皇行幸記念碑」の旧地を探そうと思ったのは、旧地それ自体の興味でもない。それに付随した情報への興味だ。

 位置情報として、ここが明治期の銀山経営社だった弘成館の旧鉱山事務所跡らしいということになり、精錬場跡らしいということとつながる。弘成館の旧鉱山事務所跡も、資料によっては「銀山本部事務所」前という言い方。
 弘成館とは、初代大阪商工会議所会頭をつとめた五代友厚が明治6年につくった全国の鉱山の管理事務所とのことだ。
 明治天皇行幸記念碑の旧地という位置情報には、これらの情報が詰まっている。

 更には、ここら辺は、元々「買石町」だったらしいという情報に広がる。
 辞書的には、「買石」或いは「石買」は、元々、鉱石を買って製錬する専門業者のことらしい。更には、製錬技法にも転化する言葉らしい。
 買石の町には、その石買い(専門業者)の他に、大工、堀子の宿舎、商店、床屋等が設置されたり、役所が建てられて厳重な管理体制が敷かれたりするという風に中心的な役割を担う場所になるということのようだ。
 五代友厚は、明治6年にその買石の町として完成されていたという歴史的な背景のある位置に、全国の鉱山の管理事務所として弘成館を建てたという事になる。

 この事によって、今回の散歩のイメージが広がる。
a0087378_4363660.jpg これは、熊野神社を探すのに参考にした明治43年新沼決壊の「被害地略図」だが、この略図を銀山が繁栄していた頃にはここがその中心地だったのだろうとイメージして見直す。すると、追手町から益子神社の南側に伸びる道筋に民家が集中しているように見えてくる。
 この「買石町」の中心地に向かう道筋が、神社南側の道筋なのだろうということだ。そういえば、一般の地図では、この道筋の途中まで太い道筋が描かれるが、この道筋が消えた地点が、弘成館管理事務所の位置なのではないかとも想像する。
 また、今回の散歩の最初の興味は、福島電燈会社を創立した菅原道明氏と半田発電所とのかかわりだったが、この菅原氏が訪ねた場所は、この弘成館管理事務所だったろうという風にこちらも具体的なイメージになる。ここから、亀張水路沿いの道筋を辿って、半田発電所を見学したということだろうか。
by shingen1948 | 2012-07-17 05:20 | 半田銀山 | Comments(0)