再び「半田銀山史跡公園」に立ち寄って~半田散歩から⑬
2012年 07月 13日
ここが半田鉱山関係の史跡の一つで、昭和60年に町の文化財(史跡)に指定されているとのこと。
南半田字女郎橋地内の鉱山軌道が旧羽州街道を越えるために造られた跨道橋跡の石垣が、史跡らしさを感じさせる。
この道橋がまたいでいるのが、旧道の羽州街道の名残りと分かるのが右下に写る「旧羽州街道」の表示柱。
今回の半田散歩で、坑口「再光」とそのトロッコ道まで想像が膨らんだと思っている。その坑口「再光」からトロッコ道が、羽州街道を越える跨道橋跡の石垣に続いていたということのようだ。
「街道web」の「半田銀山専用軌道」のページから、旧伊達郡役所に掲示されたという当時の様子のイラストの写真と「橋台上面よりも更に高い位置に道床があったことがわかる。ズリをより多く捨てるためにできるだけ高さが必要だったのであろう。人力でトロッコを押していたようだ。」との解説をお借りする。
この手前の水路にかかる橋名が同じ「女郎橋」。
ここに、「半田銀山専用軌道」の情報、「ここから東北本線・桑折駅まで軌道を設置した。 完成は大正6年(1917)4月」をイメージに加えると、その活気が一層感じられるような気がする。
なお、今回の半田散歩では、明治43年(1910)の「半田沼決壊」がイメージにあって、何となく関連しそうな風景を撮っているが、その中のこの一枚は、「半田銀山専用軌道」の情報で、トロッコ道とかかわるぼた山の風景らしいことが分かった。
散歩で立ち寄って整理した中から半田銀山史跡にかかわるページをリンクしておく。
○「半田銀山遺跡」
http://kazenoshin.exblog.jp/7764484/
半田銀山二階平鉱口に立ち寄った事を中心に整理している。ここは、行政区は国見町なので、案内は国見町になるが、散歩人には行政区のこだわりはない。立ち寄ったのは、羽州街道を探る途中。
○半田銀山中鋪跡~半田散歩から④
http://kazenoshin.exblog.jp/15566434/
半田銀山とかかわる施設の中鋪と呼ばれる坑道に達する昭和に掘られた通洞坑は、半田沼公園の散策の中で整理した。
○林道半田山線起点付近の風景~半田散歩から⑥
http://kazenoshin.exblog.jp/15687015/
このページは、亀張水路を探る途中の風景を整理している。簡易水道の水源とのかかわり中心の整理だが、この中の鉱夫の墓なども関連遺構とみていいのだと思う。
なお、銀山で使用された道具などは、旧伊達郡役所に展示され、銀山関連の古文書は『桑折町史』第9巻に収録されているという状況のようだ。
○「明治天皇東北巡幸」
http://kazenoshin.exblog.jp/7748013/
「半田銀山史跡公園」の中にある明治天皇行幸記念碑を「明治天皇の奥羽(東北)巡幸」という別視点から眺めて整理した。ここから眺めた霊山というと、また別観点が派生する。
明治43年の決壊は東北本線を超えて国道にまで達する大規模なものでした。
西根堰にも被害があったものと思われます。
現在は治山工事が成されて長閑な田園風景になってますが、
今でも自然災害の危険を内包しているのでしょうね。
今回の震災では、半田山が随分やられているように感じました。特に水路脇など、大雨等の自然災害が重ならなくてよかったなぁと思います。
ちょっと疑問ですが、坑口からのトロッコ道ですが、これが専用軌道と重なっていて、途中で、ぼた山へのトロッコ道と専用軌道への道筋と分岐していなかったのかなぁと思えるのですが、……。
あくまでもトロッコ道だったのですかね。
トロッコ線は坑内~選鉱場、その手前で分岐~ズリ山、
という構成になっていたのではないかと思います。
選鉱場~ズリ山、という線があったとすれば、選鉱場付近はデルタ線状になっていたのかも知れません。
鉱山事務所跡には石垣が残っているそうですが未確認です。
山の稜線から位置を特定できそうですね。