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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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地域の人々が伝える祈る心~観音寺②と「孝子善之丞幽冥感見之曼荼羅」

 この寺に伝わるという「孝子善之丞幽冥感見之曼茶羅」は、「孝子善之丞感得伝」がその基になっていて、その「孝子善之丞感得伝」は、「孝感冥祥録」がその基になっているという関係にあるらしい。
 その大本の「孝感冥祥録」は、主人公の善之丞(出家して直往)が語った説教を、兄弟弟子の厭求が筆記したものが基になっていて、その記録を喉阿が整理し、更に、それに宝州の評を加えて刊行されたものとのことだ。

 その巻頭言には、「善之丞の事は半田村に逗留していた無能の法談に取り込まれて、『四遠に流布』し、『みだりに改作』するものさえ現れたとする。」とあるとのこと。そこから、「近世農村に根を張った浄土系説法僧の布教活動の姿と、その地獄語りに耳を傾ける地方民衆の姿が浮かび上がる」ことに着目する資料を見る。

 この事の具体的な姿が、観音寺が絵の内容を口承で説明する絵解きに使われたと思われる「孝子善之丞幽冥感見の曼荼羅2幅(平成6年4月28日町指定)」を所持するということだと、勝手に解釈している。
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 物語のあらましは次のような事とのことだが、この物語を聞いている人々が、具体的にイメージする観音堂が、この寺の観音堂なのだろうと想像する。
 奥州伊達郡南半田村に松野善之丞という少年がいた。彼は吃りであたが、生来の親孝行の息子だった。
 一方、父の善四郎は、三宝を誹諺する不信心者であった。その罰であろうか、父は正徳4年3月の頃より癩病を煩い病床に臥してしまう。
 善之丞は父の病気平癒を願い、毎晩鎮守八幡・桑折の薬師・清勝寺村の観音の3所に参詣・祈願していたが、種々の怪異や孝心をめでる鎮守八幡神等の霊験を蒙ることが度々であった。
 どんな困難にも屈せず参詣を続けた功徳のお陰で、享保元年3月12日の夜には、観音堂に地蔵菩薩が現れ、その錫杖にすがって、地蔵の案内で地獄・極楽巡り、具さにその有様を見学して、翌日同じ観音堂に帰還することができた。
 不思議に吃りもだいぶ治っていた。その後、善之丞は無能和尚に帰依し、その示寂後、桑折の大案寺で出家し直往と号した。
 「絵解き」という具体的なイメージを持てなかったので、検索してみたら「小林玲子の善光寺表参道日記」という、この「孝子善之丞幽冥感見の曼荼羅」の絵解きの具体的な姿が浮かぶページをみつけた。
by shingen1948 | 2012-06-06 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)