地域の人々が伝える祈る心~北半田村「塞耳庵」②無能上人について
2012年 06月 04日

その上で、無能上人の念仏三昧の生活について整理しておく。
この方が、地域の方の心に強烈なインパクトを与えたということを抜きにしては、その心がどんなものかの感覚に近づけないと思うからだ。
その時代の地域の人々の立場になって、無能上人の念仏三昧の生活をみつめるつもりで整理してみたい。
無能上人の念仏三昧の生活について紹介された資料によると、無能上人25歳の時ということから、宝永5年(1708年)だろうか。この時から常世不臥というから、身体を横に臥すことなく、日課念仏も3万称として念仏三昧の生活に入られたとある。
更に、宝永6年(1709)には、遁世の身となることを決意し、昼夜をとわず墨衣を脱ぐことなく、日課6万遍の口称行者へと進まれたという。
そして、正徳3年(1713)の春には、伊達郡小島村の梅松寺に庵を結ぶが、この時、自ら剃刀を以って男根を断つといった行動に出る。
ここで衝撃的なのは、「自ら剃刀を以って男根を断つといった行動」だが、実は、計算してみると、その前の「念仏三昧の生活」も衝撃的な活動だということが分かる。
1秒に1回唱えるとして計算すると、昼夜寝ることをやめても、「1×60×60×24=86400」にしかならないということを念頭に置けば、そのすさまじさが分かる。資料によっては、その後は、日課84000遍から100000遍になったというのも見る。
更には、これらは元禄12年(1699)大安寺で得度(17歳)の後、専称寺に入寺したり、各地で修行祈願をしたり、増上寺で学んだりした後の事というのも凡人には衝撃的だ。一般的な感覚からすれば、これで充分和尚さんとして通用するようになって、その安定を捨ててという事なのだろうという印象だ。恐らく、それが当時の人々の心に響いたのだと勝手に想像する。
この資料と先に整理した資料を重ねると、以下のような経緯になるようだ。
宝永5年(1708年)身体を横に臥すことなく、常世不臥で日課念仏も3万称の念仏三昧の生活に入られる。
宝永6年(1709)昼夜墨衣を脱ぐことなく、日課6万遍の口称行者へと進まれる。遁世の身となることを決意。
正徳元年(1711)10月伊達郡小島の「弥陀大仏ノ霊堂」で百万遍苦行の大願を成就。
正徳2年(1712)の冬、川俣小島村の梅松寺に庵を結ぶ。
正徳3年(1713)元旦から日課十万遍以上を衆するようになる。この時、自ら剃刀を以って男根を断つといった行動に出る。
そして、その後、この北半田村「塞耳庵」に庵を結んだことについては、先に整理した。
なお、念仏勧化が、この正徳3年(1713)から5月より、享保2年(1717)頃までに集中しているらしいというのは、先に整理したところだ。