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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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地域の人々が伝える祈る心~直往堂

 ここは、地区の案内では、「孝子・善之丞墓所」とされる。それで写真をその視点で撮っている。ここも、今回の震災の影響を受けたままになっている。
a0087378_7125875.jpg
 これを「地域の人々が伝える祈る心」として整理しようとして、ちょっと違和感を覚えている。
 「地域の人々が伝える祈る心」として整理してきたのは、無能上人の感化を受けた方が、庵で道を求められ、そこが信仰の拠点となり、あるいはその方が勧化の要請主になって地域に広がっていくということだった。
 視点を当てたかったのは、感化を受けた地域の方々が、その庵に集い、信仰の拠点となっているという方だった。
 それが、ここでは庵で道を求められた方に視点が焦点化されている。
 これは、地元ということもあって、伝えようとする意志がまだ生々しいためなのだろうと想像する。

 ただ、整理したいのは一歩引いて「地域の人々が伝える祈る心」ということであり、勝手にその整理の視点風にすると、ここは、道を求めた善之丞氏の「塞耳庵」を「直往堂」として移築されたところということだろうか。 その隣に墓所も移築されて、それが案内されるというふうにとらえればよいのだろうか。
 それなら、写真の構図を左手の庵とこの墓所を入れて撮ればよかったかもしれない。

 ただ、先に清水町宿「阿弥陀堂」で、曖昧で、確認が取れないものとして、以下の2点を挙げた。
 〇 庵を現在地に移し、新たに3尊を講じ、48夜別時念仏を開白するとともに、二本松大運寺を本寺と定めて、庵号を「「塞耳庵」と定める。
 〇 縁知没後、元文2年3月、半田村の善之丞こと直翁が移住、居住数年一生をここで了える。
 その2点目の「半田村の善之丞こと直翁が移住、居住数年一生をここで了える。」としたその善之丞氏の庵と墓所ということだ。ということは、そこでも「半田村の善之丞こと直翁」という方個人に視点が当てられていたということでもある。

 
 本当は、この方は地獄極楽を実体験された方ということになるらしいが、案内板では、そこは控えめにして、以下のように解説する。
 「孝子・善之丞墓所」
 善之丞は、元禄15年(1702)南半田町の松野善四郎長男として生まれ、幼少より資性温順、孝親友愛の心を持ち信心深い正直な人であった。正徳4年(1714)3月、不幸にも父と弟が共に重い病にかかったために善之丞はわずか13歳の身をもって一家を支え、昼夜の別なく働き、薬を求めて看護につとめた。
 善之丞15歳のときには、正月10日の夜から父弟の病気平癒祈願のため、冷水で斎戒沐浴し八幡神社、桑折村薬師堂、万正寺村坂町観世音等に丑の刻参りを重ねること実に32夜におよんだ。2月12日から父弟の病気が一時は快方に向かったが、不治の病故に相次いで他界した。
 後、善之丞は発心し仏門に帰依し大安寺の良空上人について剃髪し、直住と号した。享保8年(1723)2月、22歳にして、田町に「塞耳庵」を結び一意専心に親族のため、冥福を祈ったという。
 その後修道のため山形方面に出向中、病にかかり36歳を一期として入寂した。荼毘にふされた霊骨は、塞耳庵の一角に埋葬され略記を刻んだ墓碑を建て、永く孝子の亀鑑として顕彰されていた。
 時移り、昭和29年半田小学校の改築工事に伴い地区住民相謀り八幡一番地に直往堂を建立し改葬、更に昭和52年新幹線建設によって現在地に移葬移築された。現在、田町地区民の手によって保存管理され、その遺徳を敬仰し、常に香華の絶ゆることがない。
 孝子善之丞感得禄上下2巻の版木と曼荼羅2幅が、坂町観音寺に保管されている。
 平成元年10月
 桑折町教育委員会
 この中で「塞耳庵」をさりげなく「享保8年(1723)2月、22歳にして、田町に「塞耳庵」を結び一意専心に親族のため、冥福を祈ったという。」とするが、これは、この地域では「塞耳庵」は無能上人をイメージするのは知っているのは当然だということを前提にして解説されているものと思われる。
by shingen1948 | 2012-05-30 07:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)