地域の人々が伝える祈る心~飯坂「念誉山満願寺」
2012年 05月 24日
大鳥城址から、大手門の石碑を経由して、飯坂塞耳庵とのかかわりで、満願寺へ向かう。
途中、震災で崩れた温泉集会所は整地され、共同浴場大門の湯の駐車場になっていた。
ここは、先に、「天王寺の散歩」で、信達33観音12番札所を意識したという経緯の中で「飯坂散歩⑳:満願字観世音」として、整理している。
その中でイメージした満願寺の配置を確認すると、この観音堂の北側に、別棟の籠り堂があり、その籠り堂の南側に小堂があって、その奥に仏間がある建物があるという配置だったとのことだった。その堂前に札張堂があったとか。<「信達33札所観世音霊場」より>
この満願寺は、明治13年の飯坂大火で焼失して、観音堂だけになったという経緯のようだ。
その散策で、この満願寺が、念誉山満願寺岩城専称寺末寺「信達両郡寺社院」ということを確認している。しかし、そのことが、今回の「地域の人々が伝える祈る心」とかかわることを理解していなかったらしいことが分かる。
岩城専称寺は、浄土宗名越派奧州総本山の寺院であり、名越檀林傳宗道場の寺あるということを認識することで、この風景の見え方が変わるようなのだ。
その岩城の専称寺の寺伝「梅福山主歴代」には、「13世 良実 真蓮社霊達 同州信夫郡満願寺開山 明暦3年7月23日寂」とあるとのことだった。これは、正式にその末寺とされているということになるということだ。開山者が明暦3年(1657)に亡くなられていることからは、この寺の開山はそれ以前の推定が。
その明暦3年(1657)年代を確かめる。
先の飯坂「塞耳庵」の良照不能開創は、元文5年(1740)9月だ。それと比べると、それよりも83年以上古くから歴史を刻んでいたということのようだということが分かる。
無能寺とかかわる無能上人は、1683〜1719の方だから、それよりも古い時代だ。
このことから、飯坂「念誉山満願寺」の視点で経緯を確認する。
明暦3年(1657)飯坂「念誉山満願寺」は、浄土宗名越派奧州総本山の末寺寺院として歴史を刻む。
その経過の中で、同じ名越派の無能上人が強烈な念仏のブームを起こし、その無能上人が入寂後、その弟子の不能が無能上人の徳をあがめて享保20年(1735)2月に「無能寺」と改称し再興される。
その不能上人が、元文5年(1740)9月に飯坂「塞耳庵」に住するようになる。同じ浄土宗名越派の寺院であることから、この寺との交流があったのではないかと想像する。
それらの経緯の後、この寺は、宝暦7年(1757)に桑折無能寺の支配下に入るということなのだろう。
更に、この名越派の特徴が一念業成を説くことであり、一念の念仏で往生が決まるという教えだったらしいという概観を付け加えておくことで、「地域の人々が伝える祈る心」としての風景が、より見えやすくなるということのようだ。