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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマと地域を結ぶ糸~吉川英治撰「大鳥城誌」碑②

 天体にそれ程興味があるわけではないが、今朝だけはミーハー気分で空を見た。残念ながら空は、雲で覆われていた。もうそろそろ天体ショーも終わりかなという頃になって、その雲が薄くなり、僅かに欠けた太陽が見えた。専用メガネでは遮光がきき過ぎる。それでも、何か損な気がしていたので、ちょっと満足と気分を変えることができた。

 今回の大鳥城への立ち寄りは、季節便りとしては適時性に欠ける整理だが、大河ドラマ「平清盛」と何とか糸で結んでみるということでは、それ程タイミングはずれていないかもしれない。
 ドラマでは、源氏方のいろいろな人物が保元の乱の物語に向けて登場する。弁慶さんは勿論、義経さんも含めて吉川英治撰「大鳥城誌」碑にかかわる源氏方の人物が出そろう。それに、もう登場はしないだろうと思っていた西行さんまで、今回顔を出す。
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 医王寺から大鳥城に向かうのは、久しぶりの旧道だ。
 ここは、先には湯ノ庄司佐藤父子の跡をたずねる芭蕉の奥の細道のイメージ中心だったが、今回は、そこに源平合戦にかかわるイメージを付加する。「大鳥城誌」碑の表現を借りれば、次のような事柄だ。

 〇 治承4年、源頼朝の旗上げを知ると、九郎義経はただちに平家追討の陣へ馳せつけるが、その時に、この地で佐藤継信・忠信の兄弟と主従の約を結んだというその城を訪ねること。
 〇 先の「旧道諸説を歩いてみる」散策で整理したこととのかかわりだが、文治5年8月、義経の奥州落ちを追って鎌倉の大軍が差向けられるや、この城の主であり、兄弟の父である湯ノ庄司佐藤元治は、一族をひきいて石那坂に頼朝の大軍をはばみ、目ざましい戦死をとげたということ。
 〇 吉川英治氏も、「新平家物語」でこの兄弟の事跡を書いているので、無縁の徒ではないということ。
 更には、「大鳥城誌」碑では触れないが、鈴木氏が、佐藤氏の親族西行法師は、信夫の里にやすらぐが、それはこの城なのではないかと想像を膨らませていること。このことについては、昭和57年建立の福島飯坂ライオンズクラブの案内板で、「親族西行法師が陸奥を旅しこの地に安らぎを求めた頃、小平泉の観を呈し賑わいをみせていたと言われている。」とその西行法師にふれて説明している。
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 旧道を自然に歩けば、大鳥城の御荷越にぶつかる。
 ここで、「高舘周辺散歩②~大鳥城についての情報を意識して」で整理したこの坂道が大手口だと推定する説を勝手に採用してイメージする。


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 そして、そこで一息つきながら、更に今回の散策に都合のいいイメージを採用する。
 それは、「高舘周辺散歩③~大鳥城についての情報を意識して②」で整理した「大鳥城についての文献的考察(東北学院大学教授小林清治)」が「字舘のあたり、すなわち大鳥中学校の校地およびその東、堀切の跡から西のあたりであったかと推測される。」とするイメージだ。
 今回は、そこから飯坂球場の南側の細道を『飯坂温泉花ももの里』に向かい、そこから大鳥城城址へむかう散策コースだった。

 なお、芭蕉を追って飯坂まで来た子規は、飯坂温泉で夏の暑さに体調を崩して、ここに訊ねてきてはいない。正直なところ、本当に芭蕉自体もここから大鳥城址といわれる山に向かったかどうか怪しいなという気持ちがある。芭蕉一行は、横目でちらりと見ながら、さっさと温泉に向かったのではないかというのは、意地悪な見方だろうか。
by shingen1948 | 2012-05-22 05:18 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)