地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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吉川英治撰「大鳥城誌」碑~大河ドラマと地域を結ぶ糸

 大鳥城を史跡として訪ねた時には、吉川英治撰「大鳥城誌」碑が、ここに建っている事にはふれていない。意識のどこかで、史跡と小説というフィクションの世界を分けていたのかもしれない。
 今回の大河とは視点違いでもあるが、そのことが気になった。それで、桜の頃の季節の散策で、「飯坂温泉 花ももの里公園」に立ち寄り、その足で大鳥城跡まで登ってきたことにふれる。
 これは、5月頭で随分経つ。適時性という点で、間が抜けてもいるが、「地域の人々が伝える祈る心」でまた近くを散策しているということで、……。
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 この碑の脇に、平成16年に建てられた飯坂町史跡保存会の案内板がある。
 そこに「昭和の文豪吉川英治先生の撰文「大鳥城誌」は、今から46年前、昭和33年11月に建立しました。」とあり、その全文が紹介される。

 大鳥城誌
 この地は源平時代の歴史に、また古くから謡曲・演劇・平家琵琶などにも語りつがれて、有名な湯ノ庄司佐藤元治の子、佐藤継信・忠信兄弟の生まれたところです。ふるさとの城です。そのころ、奥州平泉の藤原3代の文化もまたみちのくの華でした。佐藤氏は世々平泉の藤原一族として善くこの地方を治め、湯ノ庄司佐藤元治が、ここ丸山の頂きに祈願の白鳥を埋めたものを由来として、大鳥城と呼ぶようになったのです。
 治承4年、源頼朝の旗上げを知ると、九郎義経は奥州の遠くからただちに平家追討の陣へ馳せつけました。途中、佐藤継信・忠信の兄弟もこの地で義経と主従の約に結ばれたのです。そして屋島の浜合において戦い、兄の継信は主の義経の矢楯になって討死をとげ、弟の忠信もやがてまた義経が不遇に落ちて吉野の奥に隠れ入った後、主に代わってむらがる敵中に消え去りました。
 次いで文治5年8月、義経の奥州落ちを追って鎌倉の大軍が差向けられるや、2児を失ってもまだこの地に拠って古武士の気骨を持っていた兄弟の父湯ノ庄司佐藤元治は、一族をひきいて石那坂に頼朝の大軍をはばみ、目ざましい戦死をとげました。このことは吾妻鏡にも記録されています。
 旅すがら昔の人の心ばえやらもののふのあわれを感じては、よく夏草の跡へ句など手向けて歩いた俳聖芭蕉も、またこの地へきた折り、湯ノ庄司佐藤父子の跡をたずねて弔ろうたと奥の細道に誌しております。下って私も迂著の新平家物語では、兄弟の事跡をそれに書きましたので、いわば無縁の徒でもありません。
 それに近くの飯坂温泉へは、若年しばしば稿を携えてきたゆかりある儘、芭蕉翁の真似びには及びませんが、ここに拙文を草して郷土の方々の郷土愛に呈したわけです。
 今日に立って昨日を見れば、すべて歴史は生々流転の音楽です。もしこの石の語るものが途上の遊子の胸を吹く旅情の一弦にでもなれば倖です。ここの山河も諸子と共に奏でを合わせてやみます。
 吉川英治先生撰
 立ち寄った書店の範囲では、吉川英治氏の「新平家物語」が全巻そろっていることは少ない。

 県立図書館はまだ完全復旧ではないが、公開図書室が入れるようになったということで出かけたら、戦記物のコーナーが設けられていた。こちらも、今年の大河ドラマ「平清盛」と地域を結びつけようとする小さな動きだが、地元紙に取り上げられることもない。
by shingen1948 | 2012-05-21 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)