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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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地域の人々が伝える祈る心③

 案内板は、ある程度体系化された事を基盤にして解説される。その観点からすると、混沌としている部分はさらりと流したいところなのかもしれない。しかし、体系化や形式化が進むと、その根本にあった心の部分が段々忘れ去られていくということなのではないかとも思う。その観点を大切にすると、解説の中でその混沌として曖昧な部分にこそ、祈る心に関わる思いを読み取るヒントが隠されているように思う。
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 改めて、称名庵を訪ねると、その西側に並ぶ石塔群の中に、少なくとも4基の念仏に関わる石碑が並んでいる。この庵が、本寺から正式に末寺とされているのかどうかは分からないが、これらの石塔群が、庵からみて本山とかかわって建てられたということではあるのだろうと想像する。

 無能寺を起こす不能上人の状況の経緯がある程度見えてくると、その石塔群の年代を確認したくなるのだが、今回はそこまで深追いしない。というのは、風景として強力なパンチを送ってきたのは、権威とか、名のある方とか、有名な寺とかという事に関係なく、地元の方が、純粋に祈る心を伝えるという部分だからだ。
 散歩人として楽しむのは、享保8年(1723)以前の話の方で、繰り返すと、無能上人の感化を受けた方が、この庵で道を求められ、その方の感化を受けた地域の方が「仏名会」なる会を組織し、仏像を建立されたという物語なのではないかという勝手な想像だ。

 ただ、もう一方では、そのことを知り得るには、その体系化が必要だということでもあるとは思う。
 不能上人の活動の概略をメモしておく。
 正徳2年(1712)に上人は、保原浄運寺6世の元で得度しているが、この庵が建った時代は修行の身であったようだ。正徳3年(1713)には、専称寺に入寺し、享保6年(1721)あたりまでの間に、浄運寺に出入りはしているが、住職という立場ではなさそうとのことだ。
 不能の念仏勧化が、享保8年(1723)24歳~享保16年(1731)32歳の頃であることは、先に記したが、この間に、享保10年(1725)に桑折付近に草庵を、享保15年(1730)に保原浄運寺の住職になるという経緯があることを付け加える。
 そして、享保18年(1733)からの無能寺と改号の動きにつながる。

 今回のこの石塔群の風景は、求道者が起こした庵が、地域の人々の信仰の拠点となり、あるいは勧化の要請主になっていたことが想像できるものとして整理しておく。
by shingen1948 | 2012-05-17 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)