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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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地域の人々が伝える祈る心②

 熊野神社で気になる風景を見つけた事についての確認を続ける。
 案内板では、庵にかかわっては、以下のように解説されている。
 称名庵 開山創建享保元丙申年7月15日<280年前>
 宗派 浄土宗 名越派
 山号寺名 来迎山 称名庵
 本山 伊達郡桑折町 守一山 無能寺
 本尊仏 阿弥陀如来
 脇待 観世音菩薩 勢至菩薩
 開基 黒沢信海和尚 

 最近、どこかで元号と西暦を併記しないと頭の整理が出来ないのは、日本史をよく学んでいない者の習性らしいということを読んだが、自分はまさにこれに当たる。
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 この庵の開山の享保元年頃は、西暦では1716年。この時、ここで本山とする伊達郡桑折町 守一山 無能寺としてはまだ存在しない。
 正徳寺であったこの寺が、無能寺として改号するのは、享保20年(1735)2月とのことだ。この改号に向けて、享保18年(1733)に無能の影像と石浮図塔が運ばれ、不能上人がこの正徳寺住職に任命され、そして、入仏式が翌年(1734)に行われて、まず正徳寺として復興する。 そして、享保20年(1735)に捨世寺として無能寺と改号が完結するという状況だったらしい。

 この庵主である黒沢信海和尚という方がこの庵に住まわれて、地域の方が「仏名会」なる会を組織し、仏像を建立されたとされる時代は、無能寺以前の経緯と思われる。

 大胆かもしれないが、直接的に無能上人の影響を受けられた方との想像をしてみる。
 というのは、正徳5年から享保元年辺りにかけては、その無能上人の念仏勧化が活発な時代ではあるらしいというような状況のようなのだ。この時の上人の法談場は、常にその会場となる寺院の収容能力の限界を越し、その話の内容を聞くという状況ではなかったらしい。それでも、大半の人々は、無能を一目見て彼に結縁すればそれで満足するという状況だったとか。
 この信夫の里でも、今の時代からは想像もできない念仏流行の状況があったらしいのだ。
 なお、無能上人は、享保3年(1718)頃からは病気がちとなり、享保4年(1719)には入滅しているという状況のようだ。

 無能寺を起こす不能上人の念仏勧化は、享保8年(1723)24歳~享保16年(1731)32歳の頃とのことであり、この庵がそちらとかかわるとすれば、享保8年(1723)以降の話だろうと思う。
 散歩人として楽しいのはそれ以前の話で、無能上人の感化を受けた方が、この庵で道を求められ、その方の感化を受けた地域の方が「仏名会」なる会を組織し、仏像を建立されたという物語なのではないかという勝手な想像だ。
Commented by 地元人 at 2012-05-16 17:07 x
信夫山を検索していて辿り着いたのでコメントします。地下工場についてですが、かれこれ20年前にすべて入って探検したので、拝見してて懐かしく楽しかったです。また是非お聞きする機会があればと期待してます。
Commented by shingen1948 at 2012-05-21 17:19
コメントありがとうございます。
信夫山は、少年時代の冒険心を思い出させてくれる楽しい山ですよね。子ども時代をこの山とふれながら生活できた方がうらやましいと思います。
残念なのは、最近公園が整いすぎてきているのではないかなぁと勝手に思っています。
案内される方にお聞きしても、冒険心にかかわることはなかなか教えて頂けないようなので、そういうこととかかわることがあったら教えてください。
by shingen1948 | 2012-05-16 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)